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欲しいものを与えることの是非

30年ぐらい前に出版された子育て本を読んでいて、気になる部分があった。

ざっくりいうと「今の子どもは欲しいものを何でも、すぐに与えてもらえる。昔はそうではなかった。何でもすぐに手に入る環境では、忍耐強さや自発性が育たない」みたいな内容だった。

これを見て思い出したのは、ダウンタウン松本人志さん作詞の「チキンライス」である。

子供の頃たまに家族で外食
いつも頼んでいたのはチキンライス
豪華なもの頼めば二度とつれてきては
もらえないような気がして

親に気を使っていたあんな気持ち
今の子供に理解できるかな?

浜田雅功と槇原敬之「チキンライス」

たしかに、私の親ぐらいの世代が子どもだった頃、昭和30〜40年代くらい?は、こんな感じだったんだろうと思う。
バナナは高級品だったとか、聞いたことがある。笑

さても、我が家で娘が遊ぶスペースは、おもちゃだらけである。
外食のお子様セットにもおもちゃがついてくるし、100均にいけばシールのひとつも買わされるし、スーパーに行けばパンやジュースをねだられる。
たかだか100円や200円だしと、こっちも軽く与えてしまう。

SNSを見れば綺麗で広い家でおしゃれな服を着せられ、色とりどりのおもちゃで遊ぶキラキラキッズたちがいくらでもいる。
「このおもちゃがよかったおすすめ」的な情報もいくらでも入ってくる。
「みんなそうなんだ」と思えば、あれもこれも欲しくなる。

私が子どもの頃、といってもさすがに娘ぐらいの歳の頃の記憶はないが、小学生のときは誕生日とクリスマスが二大イベントだった。
大物のおもちゃやゲームが手に入るからである。
ケーキが食べられるのも、家族の誰かの誕生日かクリスマスだけ。
(さすがに外食やふだんのおやつまでは不足してはいなかったが)

何ヶ月も前から「あれにしようか、これにしようか」と考え、その日を心待ちにして、やっと手に入れるおもちゃ。
でっかいくまのぬいぐるみ、セーラームーンの人形とコンパクト、お年玉を兄と出し合って買ったゲーム、どれも思い入れは強かった。

娘の誕生日を前に、なにをあげようかとさんざん悩んで、思った。
おもちゃはすでに十分持っているではないか、と。

結局は「自分があげたい気持ち」なのだ。
喜ぶ顔が見たくて。笑ってほしくて。ありがとうと言われたくて。ママ大好きと言われたくて。
別れた旦那のばあばも孫バカが爆発しており、向こうの家に遊びに行けば高級フルーツやシャーベットが出て、ご飯は毎回大好きなからあげで、おみやげにジュースとおやつをどっさり持たされて帰ってくる。
わかる。そりゃしたいよね。たまにしか会えないならなおさら。それを否定するつもりはない。

たしかに、成長するにつれ遊ぶおもちゃも変化するし、今は知育おもちゃも充実していて、娘が今ハマっている「ひらがなパズル」など勉強になるものも多い。
一方で、車内や離れて暮らすパパの家に遊びに行ったときなどおもちゃが手元にない環境でも、ないなりに娘は一人で十分楽しむことができる。
基本は歌う、踊る、跳ねる、しゃべる。
そしてそのへんにあるひもやら、孫の手やら、ラップやら、セロテープやら、新聞紙やら、謎の箱やら、何だって遊びに昇華させる。毎朝パンを食べては、かじったあとの形を見て「船〜」「くるま〜」「こうもり〜」などと遊んでいるくらいだ。

空を見上げては「わんわんの形の雲だあ〜」と言ったり、月を見ては「おつきさま〜!○○ちゃんお散歩してるの〜!一緒に行こうね〜^^」と話しかけたり、娘に見えている世界はとっても豊かだなと思う。

おもちゃはあってもいいが、なくてもいい。
時間はつぶせるし、知育にもなるが、なくても豊かな時間は過ごせる。

娘は大自然に囲まれた環境に暮らし、保育園の先生やおともだちもおり、かつ祖父母とも同居なので、それらもいい影響を与えているのかもしれない。


結局のところ、誕生日プレゼントは買ったし、娘の好きなものだらけプレートでお祝いもするし、ケーキも予約した。

今はこれでいい、と私は思う。
まだ3歳の君は、なるべくなら欲しいものを与えられて満たされて守られているべきだ、とも思う。
決して、欲しいものすべてが手に入るということはないのだから。

そして、与えられるのはモノだけではない。
愛情も、経験も、君にあげられるものはたくさんあるはずだ。

娘が大きくなるにつれ、与えるおもちゃは減っていくだろう。
おもちゃよりも好きになれるものや時間を、娘は自分で見つけていくだろう。

そのときまでは、おもちゃで笑う君の顔を見ていたい。



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