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世界の夜明けは近いぞよ

 この文章に目を留めて下さった皆さま、ありがとうございます。
私は火を焚いたり、畑を耕すのが好きな家庭保育人です。福島から佐渡ヶ島に移住して、六年目。森を背負った古民家で家族と猫二匹、鶏三羽と暮らしています。
先日佐渡教会にて、キリスト教の洗礼を授かりました。私がなぜ佐渡で、新しい生き方を受け入れたのか。その三つの理由について、お話させてください。

ワタシとトモシ(息子)。



一つ目は、東日本大震災をきっかけに加速した不安と虚無感、それらを棚卸しする時が来たと感じたからです。あの日高校生だった私は、東京にいました。大きな揺れの後、茫然自失の状態で彷徨った知らない街。空腹でコンビニに入っても棚は空、断水でトイレも使えない。持っているのは少しのお金だけ。自力で自分の食べ物も、排泄する場所さえも見つけることが出来ない。メディアからは嘘ばかり聞こえ、今まで信じていたものが無かったのだと気がつきました。それからの私は、自分の人生をどこか他人事のようにボンヤリ過ごしていたように思います。必要としていたのは、本当の心の拠り所だったのかもしれません。かみさまを安心して頼りにして良いのだと、教会とみんなは共にいることで教えてくれました。

薪の火は、柔らかくて暖かい。


二つ目は、尊敬する人(かみさま、ですが)の主催するコミュニティで子育てがしたいからです。
自給自足的な暮らしは好きですが、その発想で子育てをするのに限界を感じていました。(核家族での育児は本当に大変!)「一人の子どもを育てる為には、一つの村が必要」という言葉があります。未熟な私達が彼らの健やかさを見守っていくには、多くの視座が必要です。
また、みんな違って当たり前を前提とする佐渡教会は、多様性の学び場。それらの点で教会は、子育てと相性の良いコミュニティだと思っています。

畑の恵み。

 三つ目は、この出会いが大切な啓示のように感じるからです。
狭い門を入って在るのは、かみさまという一つ屋根の下で、みんなが温かい食卓を囲む風景。その扉の無休・全開ぶりには、いつも感動させられます。ここに集まる人々に共通するのは信仰の有無というより、人の弱さを知っているかどうか。私はひとりでは生きていけない。またひとりであったことは一度もなかったのだと、教会やみんなと出会い、ようやく理解することが出来ました。
震災以降拘っていた、自立と依存の二元思考にサラバ。小さな自給自足を卒業し、悔い改めます。

目に見えない、大きな存在を感じて。

 ある教会員の方は、佐渡教会を「自分らしくいられる場所」と表現されました。
私にとってこの場所は、「人と自分に優しくなれる場所」。このスキマが、子ども達と生きる世界に広がっていったら良いなぁ、と思うのです。
共にご飯を食べながら。世界の夜明けは、近いぞよ。みんなと祈る変化の波に、私も加わります。


 

   

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