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死にたいあの子と今日が過ぎていく私。

死にたいと言う子の話を職業柄よく聞く。
もちろん内容には触れられないが、彼らは生きることに苦しんでいる。

私は?
振り返ってみても、人生の中で死にたいと思ったことがない。
学生時代、メンタルが落ちて学校に来れない友人に対して、時折ラインを入れたり家に行って差し入れしたりしていた。
ある日やっと学校に来たその友人は
「Miraiはまぶしすぎる」そう言った。
その言葉が私は忘れられない。
その友人にはもう会うことはできない。

精神科で働いていて、その言葉が象徴する私を一つのコンプレックスに感じることがある。
でも、死にたい気持ちが分からなくても彼らの話を聞くことはできる。
聞いて寄り添って一緒に考えることはできる。
考えても分からないねって一緒に困ることはできる。
世知辛い世の中に一緒に文句を言うことはできる。
そう思っている。

どうにかして、彼らの死にたくなる理由を取っ払って、
どうにかして、希望を見出して、
どうにかして、生きたいって思えるように…
と思っていた時期もあった。それが看護であり、医療であると。

「なんで自傷行為しちゃいけないんですか。生きるためにやってるのに」
そう聞かれて私は、うまく答えられないと白状した。
苦し紛れに「そうやってたら、どこまでで止めるか分からなくなって死んじゃうかもしれないでしょ」と答えた。
でも彼らは、「なんで死んだらいけないんですか」とそう思っている。
だから私の答えは納得できないものだっただろう。

自傷行為することが生きるため?というよりは死なないため?
でもそれが一つの対処であることも医療者にとっては受け入れ難いが真実なのかもしれない。

取っ払うには根深すぎて、複雑すぎて
希望を見出せと言う方が暴論かもしれなくて
生きたいって思えるようにというのは押し付けかもしれなくて

今までやってきたことは自己満足でしかない?
そう思うと恥ずかしさや虚しさが私を包んだ。

でも、それでも私は…と希望を持ってしまうのは私のエゴだ。
でもそれも私。医療者も人間なのだから、エゴがあってもいいではないか。
それも私だとメタ認知してみる。

死にたくなる理由を作ってしまったのは周りにいた大人のせいかもしれないが、今日生きてもいいかなという小さな小さな理由の一つに私と話すことがあればいいな。
そういう大人もいたなと、「こんな世の中生きていても仕方ない」という認知への小さな小さな反証になればというエゴを持って、今日も私は働く。


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