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思春期の息子のことばを受け止めてみる。

子どもたちの話。

今日は息子の話を。

息子は小学6年生。早生まれ。
2歳9ヶ月のときにASD(自閉スペクトラム症)との診断を受けました。

今ではもう当たり前に知られているかもしれないけれど、ASDというのはかなり範囲の広いもので、そして病気とは違うもの。

強いて言うなら、脳の中の情報処理の特徴、という感じ。

息子は幼稚園在園時に療育を受けて、今は支援級に在籍中。

よく、障害や発達障害を個性だ、なんだ、の議論があるけれど、どこに立ってものを見るかによって、何もかもが違うから、その議論には私は気持ちの中でも参加しなくなっていきました。

息子の場合、小さな頃からたくさん笑う子で、言葉はなかなか出てこなかったけど、なんとか伝えようとする意思が強く、結果、教えていないのにベビーサインを自らはじめていて、私も汲み取りに難しさを感じませんでした。

だからこそ、診断名には思わずきょとんとしてしまって、でも、

いや、待って。
私が「そんなの嘘です、違います!」と言うことのメリットってなんだろう。

そんなことを感じてふんわり受け止めました。

それが全てのはじまり。

その後いろんなことを勉強し、息子のことを観察していく中で、私のことを観察する必要があるな、にいきつきました。

よく、障害の受容、という話もあるけれど、まずはどれほど自分が自分を受容しているのか。

結局はそこにつきるなあ、という感じがしています。

そして、診断名というのは支援を受けるための切符のようなものなだけで、とてもじゃないけど、子どもたちの色合いを表すことはできないのです。

日本人、と言ってもいろんな人、いるよね?
そんな感じ。

息子のクラスのお母さんたちとお話するときはもはや診断名など何の話題にも上がらず、

「あの子はこんなことが得意、好き、あんなことをがんばっているみたい。」

そんな言い方をすることが多いです。

でも実際のところ、そんな簡単に表現できないほどの細やかなこと、その子にしかない明るさやほほえましさ、または苦しさ、そういったものがたくさんあります。

息子はいろんな子の「得意なこと、苦手なこと」をよく感じていて、つまり、いろんな子のいろんな色合いをとてもよく見ています。

いろんな上級生からたくさん手伝ってもらってきた息子も、今になり、いろんな子の空気感を読んで、手を差し伸べることが増えてきました。

それと同時に、支援級からみえる一般級の景色も、
思春期に入ることで変化してきました。

「なんでもできる子、いいな。」
「自分はなんでこんな体に生まれたんだ。」
「世界には自分は必要なかったんだ。」

息子からみて一般級の子たちはスーパーマンにみえるよう。

息子からスーパーマンにみえるその子たちもそれぞれに悩みがあり、その深刻さは本人にしかわからない、

そんなことは息子は今は恐らく知らないので、

昨日も寝る前にそんなことを言っていました。
何言ってるのー、と言ってもよかったし、
全力で否定したいところだったけど、
(全力で否定は何度もしたことがあるのです。)

なんとなく、そんな風に感じてる息子そのままを受け止めてみようと、

ただ身体をさするだけにしたのと、
息子の身体に触れながら、ありがとう、を言い続けてみました。

悔しいという気持ちをバネにする、という考えもあるけれど、

なんというか、
誰かの土俵で無理矢理競う感じ、がこの世の中は色濃いので、

みんなが自分の舞台で自分を表現できる、
そんな風になるといいな、と感じます。

ついつい、周りと自分を比較してしまうのは、
大人も一緒。

何ができる、できない、を超えたところにある
自分の尊さを見つけられる日が息子にくるといいな、と思っています。

mira




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