アイデンティティだって諸行無常
絵が好きだった。
pixivでイラストを漁ったり、画集を買ったり、たまに展示に行ったり。
絵を描くのも好きだった。
毎日のように推しカプを描き続ける狂った時期もあった。
私には”絵”というものが凄く身近にあった。
囲まれているのが当たり前で、今の私を形作っている存在。
”絵が好き”
それが自分のアイデンティティだと、そう思っていた。
しかし、ある日を境に私は絵が描けなくなった。
あんなに描いていた推しカプも、ぱったり描かなくなってしまった。
描けないだけならまだしも、絵に関連するもの全てが私の心を蝕んだ。
pixivも画集も見なくなった。
では、何故絵が好きではなくなったのか。
いや、”好きではない”は少々違う。
正確には”絵が怖くなった”のだ。
しかし、どうしてそのような事態に陥ってしまったのか。
今振り返っても思うが、きっかけというのは案外大したことではない。
久しぶりに行った画塾で、年下の実力を目の当たりにして自信を喪失してしまった、ただそれだけだ。
慣れ親しんだ先生の講評、並べられる作品、一目でわかる実力差。
何回も経験したはずの光景なのに、その時の全てが衝撃的で新鮮だった。
自信喪失後の私はまあ、心が荒みまくっていた。
せっかくまた通い始めた画塾はやめた。
持病の薬は増えた。
毎日のように頭の中を、あの時の光景がよぎった。
絵が怖くなった日。
自信満々で提出したデッサンが、棚の端の方に追いやられるあの光景が、私の目の前をグルグル回る。
そうして私は”絵”に拒否反応を見せるようになった。
何を描いても、自分の下手さを直視しなければいけないのが怖かった。
何を見ても、この人のように上手くはなれないと、自信の喪失に繋がるようで怖かった。
”絵が怖い”
もはや、絵が好きだった自分はどこにもいなくなってしまった。
私は、アイデンティティを喪失してしまった。
絵が描けない、絵が好きではない自分など自分ではない。
最終的には自分の存在そのものが疑問になり、希死念慮まで芽生えてしまった。
しかし、精神が限界に近づくにつれ、私の頭は冷静になる。
これがいわば、アイデンティティの拡散なのか。
私は自我同一性を失ってしまったのだろうか。
毎日のようにそんなことばかり考えていた。
死にてえ
漠然とそう思いながら、私は意味もなくTwitterを見ていた。
タイムラインを幾度なく更新しては、自分の過去ツイを眺める虚無な時間。
その時、私はある言葉に目がついた。
諸行無常
それは、自分のプロフに書いてある私の好きな言葉だった。
しかし、この言葉を見た瞬間、私の頭をある考えが猛スピードでよぎった。
アイデンティティだって変わっていいじゃないか
この世に不変なんてないのだから
そう思うと、私の心は一気に軽くなった。
びっくりするほど、軽くなった。
たまたま”絵が好きな私”の期間が長かっただけで、それを絶対的なアイデンティティだと信じるのは間違っているのではないだろうか。
いや、そもそもアイデンティティ=絶対的に変わらないもの、だと解釈をするから心が苦しくなってしまうのかもしれない。
そのような考えは、絶対的に変わらないものを失ってしまった自分に、何の価値も見出せなくなってしまうのだ。
好きなものだって、時として自分を苦しめるものに変わってしまう。
それは、おかしいことではないのだ。
そうなってしまったことを悔やみ、自分を責める必要もない。
私は、そう思うようにした。
アイデンティティの解釈として、完全に間違っているのかもしれない。
しかし、私はそう思うようにした。
そう思うことで、心を守れる気がした。
全ては有限なのだ。
好きと思う気持ちも、有限なのだ。
それは少し寂しいことかもしれないが、変わってしまった気持ちが、また元に戻る事だってありえるのだ。
だって全ては、変わり続けるのだから。
だから私は、信じてその時を待っている。
絵が怖くなってしまった自分を責めるのではなく、ただじっと待っている。
またいつか、絵と向き合える、その時を。
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