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行間オタクと芭蕉と私

(※宝石の国12巻までのネタバレを少し含みます)
みなさんは、物語の行間を勝手に想像して、Twitterで発狂するという経験をしたことはあるだろうか。
私はある。というかオタクは全員やった事があると思う。
ここ二年、私は宝石の国行間捏造オタクをやっているが、これがまあ本当にしんどい。なぜなら、私が大好きなのは彼らが宝石だった時代の妄想、つまり、彼らが月人になることを分かった上で、あったかもしれない日々を妄想するのにハマっているからである。
しかし、行間を捏造することで生まれるこの苦しみを、私は以前も味わった事があるような気がした。いつ、どこでだろう。
記憶を呼び起こした結果出てきたのは、蒸し暑い教室の中で読んだ、元祖行間オタクとも言える俳諧のある一句だった。


夏草や兵どもが夢の跡

私がこの句に出会ったのは小学五年生の時だった。挿絵に使われていた平泉の草原がとても綺麗で、何故だかわからないが芭蕉のこの句にとりわけ胸を締め付けられたのをよく覚えている。しかし、いまならその苦しみのわけがわかる。
たぶん私は、奥州藤原氏の壮絶な最期の物語を勝手に想像し、勝手にしんどみを感じていたのだと思う。
びっくりするほどオタクに向いてるガキである。
そしてこの句を詠んだ芭蕉もかなりの行間オタクであったのではないかと思う。

芭蕉が行った当時の平泉にはもう、奥州藤原氏の栄華のカケラもなく、そこには夢半ばで滅んでしまったという結果だけが転がっていた。芭蕉は彼らの面影を一片も感じない夏草の中で、そこで散ってしまった兵たちに想いを巡らせるのだ。彼らがかつて栄華を極めていたという事実と、今は夏草になってしまったという事実の間を想像し、無常な人の世に涙を流す。
宝石の国を読んでいる時の私とまんま同じである。宝石たちの楽園があったという事実と、彼らは宝石の身体を捨てたという事実の無常さに泣き伏し、過ぎ去った日々を偲ぶことしかできない。寂れてしまった平泉を見て、在りし日の姿を懐かしんだ芭蕉と宝石の国という滅んでしまった文明をいつまでも懐かしむ私。

なくなってしまったものへ愛情を抱くほど、今はもう全てが終わってしまったのだという結果だけが重くのしかかる。

どんなに彼らに想いを馳せても、ああもう彼らはいないんだ、というどうすることのできない結果に辿り着いてしまうのだ。

しかし、この精神的苦痛は癖になるから行間捏造読みをやめられないのである。頭の中は発狂するほどしんどいのに、宝石たちの長い人生の一幕を妄想し、Twitterでしんどい^^と呟く瞬間が少しだけ楽しいのだ。

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