★★★日本語のルーッ★★★ 日本語に、中国語・韓国語に無い 「音読み訓読み」が在る訳

無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人 (miracle-jiyoudan.com)で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。

すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。

まぁ物事を深く考えず、不確かな定説や伝承で満足している方は、余り知的とは言えないかも知れない。

中国語(中文/ツンウェン)で「タゥ」と発音する「桃」は日本語では「トウ」と発音し、明らかに元が中国語(中文)に起因しているが、もう一つの「モモ」と読むのはどこから来たのだろうか?

基本的に日本で使用している文字は中国からの移住民が持ち込んだもので、音訓の相違点は、音の意味は中国語の発音に習ったものであり訓の意味は日本語で使用する「訓示(教え諭す)」のに意味に通じ、その文字を蝦夷(先住民)の言葉に当て嵌めたものである。

そもそも日本の成り立ちから読み解くと大陸や朝鮮半島からの文明を携えて渡来部族が散発的に日本列島に渡来して来て弥生人を構成して行く。

弥生人の渡来が散発的であったことも幸いして、先住縄文人と大陸から渡来した長江文明を持った弥生人が争うことなく誓約手段により共存して行った。

やがて弥生人の渡来部族の集合体で大和政権が成立する。

大和政権の統治の正統性を国民二認めさせる為に様々な伝説を捏造して流布する活動を国家単位で実施する。

そこで、音読みの「トウ」と発音は、もともと中国語としての漢字の発音「タゥ」に基づく読み方である。

話しはややこしく成るが訓と言う文字を音読みすると(クン)と発音し訓と言う文字を訓読みすると訓(おし)えになる。

訓読みとは、訓示(くんじ)と言う用法に在るように「意味や解説を教え示す」、読み音である。

つまり訓読みは、その漢字の持つ意味を蝦夷(えみし)族/縄文人(先住民族)の言語に当て嵌め翻訳機能を持たしたところから生まれた読み方である。

この「翻訳機能」を持った「音読み訓読み」の歴史的事実である「日本語の成立過程」の経緯は、日本民族の根幹である「天皇制の天孫降臨伝説」とは矛盾が生じる為に日本史学習の中では取り上げられなかった。

人は、存在する現実には中々疑問を抱かない。

それは「存在するものだから当たり前」と思い込み、当然の存在と認識するからそれ以上深くは考えない。

しかしながら貴方が使っている日本語、結構面白い経緯が在って成立しているので、その事を御紹介する。

予(あらかじ)め断って置くが、これはあくまでも「日本語のルーツ」つまり「原型」の話しであり、その「原型」に渡来流入する人種の様々な言語が加わりまたは外されて今日の日本語に到っている。

我輩は、漢字(中華大陸文字)の日本読みに、同じ漢字圏の大陸(中国)や半島(韓国・北朝鮮)の国には無い「音読み訓読み」が有る事に着目した。

「音読み訓読み」が有る事は、他国から「日本語は難しい」と言われる要因の一つに成っているものだが、本来言葉は正確に確実に意志を通じさせたい為のものだから、それを何故複雑にして難しくしてしまったのだろうか?

それには、今から記述する合理的な理由が存在したのである。

【翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)】◆付・土御門(つちみかど)・安倍氏の謎日本語のルーツについては、アルタイ起源説 、高句麗語同系説 、朝鮮語同系説、オーストロネシア(ミクロネシア)語起源説(混合語起源説) 、クレオールタミル語説などが「これまでに唱えられた主要な説」とされる。

アルタイ起源説於いてアルタイ語とは蒙古語・満州語・朝鮮語・トルコ語などが属する言語である。

各説を主張する学者の間で色々と論議が盛んだが、どれも多少は正解であり、そんな不確かなものを単純にどこか一つに軍配を上げようとするのは間違いである。

つまり日本列島には、多種多様の渡来人に拠り多くの原語が流入した事実から、その内の一種を取り上げてその原語が「日本語のルーツである」と主張するのは余りにも強引な論法である。

実はそれらの原語は、日本語成立にとっては素材に過ぎない。

であるなら、その流入した多くの原語が整理を見た時が、「日本語のルーツとして成立した」としなければ成らないのである。

まぁ、唱えられた主要な説を川に例えると源流の小さな川達(支流)であり、それらが日本列島で合流して本流(日本語のルーツ)と成ったものである。

この川上あたる支流の部分が蝦夷(エミシ)族の言葉であり原日本語のルーツと言える。

つまり、支流が合流して本流と成った時点、縄文期から弥生期へ移行する言語的過程で起こり得た事が、まさに「日本語のルーツ」ではないだろうか?

勿論、縄文人(蝦夷族)には原語は在っても文字はなかった。

そしてその後、半島や大陸から日本列島に渡来して来た人々が、縄文人(蝦夷族)と共生して弥生人となった時にも、まだ意志を伝える原語だけで文字はなかった。

その後、半島や大陸から新たな文明を携えて部族単位で征服に遣って来た部族が、弥生原語の意味と漢字の意味を突き合わせて自動翻訳化する音訓二重発音の読み方を編み出した。

この「翻訳機能」を持った「音読み訓読み」の歴史的事実である「日本語の成立過程」で、日本人の根幹である「天皇の存在を天孫降臨伝説」とは矛盾するので歴史教育には取り上げ難かったと考えられる。

つまり「音読み訓読み」は渡来部族が原住民の蝦夷族を統治する為の必要に駆られて編み出した伝達手段のイノベーション(技術革新)だったのだ。

「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。

その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、そう言う意味では日本史の到る所の場面にも「虚(きょ/感性)の伝承が在る」と言える。

つまり憂うべきは、日本史の一般常識(じょうしき)とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。

「虚(きょ/感性)」の日本史に於いて単一民族思想を強調した作文を優先した為に、原住蝦夷族と渡来部族との武力抗争の歴史を隠蔽してタブーとした事で、音訓両読みの日本語のルーツが成立した説明が着かないでいる。

しかしその単一民族思想に拘っていては、日本語に於ける音訓両読み成立の説明は永久に着かないだろう。

日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし/縄文人)だった。

蝦夷(えみし)は侵略部族側がネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族を呼んだ呼び方で、自らが名乗った訳ではない。

つまり、時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで、「蝦夷(えみし)族/縄文人(先住民族)」の領域だった。

その蝦夷(えみし/縄文人)の領域を、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族・呉族)や琉球列島を北上してきた倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り、支配者になった。

それが邪馬台(やまたい)国や伊都(いと)国、狗奴(くな)国などの「倭の国々」だったのである。
この先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)が、原日本人系縄文人(原ポリネシア系)と考えられる。

つまり、最初に海の道(黒潮の流れ)を渡って日本列島に来たのがポリネシア系縄文人である。

その後、同じポリネシア系でも一旦中国大陸に渡り大陸系住民と混血した人種や大陸系の多数の人種が、文明を携えて比較的後発の征服(進入)部族として日本列島にやって来たのである。

日本史に登場する「大和言葉(やまとことば)」と言う表記には、正直少々疑問が在る。

実はこの「大和言葉(やまとことば)」の表記には、蝦夷(エミシ)族の存在を抹殺する意図が在るからだ。

原在、「日本の最も古い言葉」と伝えられる「大和言葉(やまとことば)」が残る主な地域は、日本列島の両端(りょうはし)に当たる青森県と沖縄県と言われている。

つまり「大和言葉(やまとことば)」とは、そのルーツが「蝦夷(えみし)言葉に在る」と充分に推測できるのである。

にも拘(かかわ)らず、渡来部族が先住民族(蝦夷/エミシ)の地を乗っ取った歴史を「大和言葉(やまとことば)」の名称で隠蔽(いんぺい)してしまったのだ。

大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程を観れば、鬼伝説の流布がおわった室町期に成立して居る。

日本列島の歴史は、海(海流)のもたらせた歴史である。

その海流は、南からから北に列島を包むように掠めて流れる日本海流(黒潮暖流)と対馬海流(対馬暖流)である。

島国の日本列島は、この海の道(海流)を運ばれて(航海して)来た人々に拠って国家が形成された。

まぁ秦帝国の始皇帝(紀元前二百二十年頃)が中国大陸に君臨して頃は、日本列島が、未開の縄文人が暮らしていたある種「黄河文明」から遠く離れた辺境の島だった事は事実である。

日本海流は通称・黒潮(くろしお)と呼ばれ、北太平洋の亜熱帯循環の北西部分に形成される幅が狭く強い流れの海流である。

この海流は、暖かい南方の海から暖かい海水を運ぶ為、代表的な暖流に分類される。

その通常の流れは、遠くポリネシアの島々から台湾島太平洋沿岸掠めた後、台湾島と石垣島(八重島群島)の間を抜け、琉球列島の西側大陸寄り(東シナ海の陸棚斜面上)を流れ、九州の南西で方向を東向きに転じてトカラ海峡を横切る。

そこから日本列島南岸(北太平洋側)に流れ込み、九州島・鹿児島沖、四国島沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖の太平洋沿岸を掠めながら北上、伊豆諸島の御蔵島と八丈島の間を通過して房総半島沖で南に転じて行くが、気候環境により大蛇行流路と呼ばれる南に大きく蛇行する流路をとる事もある。

日本海側に向かう支流はトカラ列島付近で分流し、東シナ海の沿岸水と混ざり合っ九州島西方沖を掠め、九州島西側を北上して対馬列島に進み対馬海峡を通って、日本列島の日本海側海域に暖流・対馬海流(つしまかいりゅう)となって流入する。

対馬暖流とも呼ばれ、日本列島の日本海側が比較的温暖なのはこの対馬暖流の影響である。

その黒潮(くろしお・日本海流)と対馬海流が、悠久の昔からの海の道で、古代縄文人(ポリネシア系)を運び、後発の征服(進入)部族(氏族・渡来民族の呉族・別名海人族や隼人族/加羅族・別名山人族)を運び、両者の混血を経て「弥生(時代)人」が誕生した。この黒潮(くろしお)の流れ、気候変動と連動して広い北太平洋を時代時代で流れを変えながら日本列島に近寄ったり離れたりする。

日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。

この「黄河文明」から遠く離れ、未開の縄文人が暮らしていた辺境の島・日本列島が、新天地を求めて「噂の蓬莱島」に渡り住もうとした征服部族達の「ずうずうしい神々の降(光)臨の地」と成ったからである。

つまり、後期の渡来系部族が集団でやって来て各地を占拠領有し、先住民族(蝦夷・えみし族/縄文人)を制圧同化して統一国家「大和朝廷」を成立させたのである。

一言で言ってしまえば、原住民族(縄文人)の日本列島へ征服部族(氏族・渡来民族)が次々に流れ込み、勝手に縄張りをして小国家(倭の国々)を作り、やがて武力征服や誓約(うけい)その他の経緯を経て大和合国家「大和朝廷」を成立させ、混血を繰り返して「弥生人」が生まれた。

実の所、この混血期間が経時的に「ダラダラ」と長期間を要しているので明確さに欠け、我輩には縄文人と弥生人の区切りは難しく、余り好きな区分けとは思っていない。

この「弥生人」誕生の辺りが、皇統と鵺の影人・序章の第二話「大きな時の移ろい」で詳しく述べる「神話の世界」なのだが、何しろ文献(古事記・日本書紀)としてまとめたのが先進文化を持ち込んだ征服部族(氏族)である所から、日本列島渡来以前から征服部族に伝わる「持ち込み伝承」をも「列島の神話」として取り上げている可能性が無きにしも有らずなのだ。

いずれにしても、天孫降臨伝説と皇国史観に影響された歴史観では、「日本語のルーツ」の発想は浮かばない。
何故ならば、「広域倭の国」と同様に天孫降臨伝説以前の歴史は建前上は「無い事に成っている」からである。

当然ながら縄文人(蝦夷族/エミシ族)と渡来部族との争いの歴史も、単一日本民族説と皇統万世一系説に隠れて日本の古代史から欠落し、中々取り上げられないでいる。

古事記・日本書紀がリアルタイムの記述ではなく昔話を編纂したもので、例え都合良く脚色された創り事の神話でも国家単位のトリックを内容に構成されれば、いずれにしても、後の子孫がそれを解く事はほとんど出来ない。

日本列島の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)が「自然共生主義」である所から、その信仰基盤に自然神が多数存在し、後期の渡来系が同化に際し、それを採用(治世に利用)して八百万(やおよろず)の神が成立した。

その混血同化の証明が、ミトコンドリアDNA分析である。

アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、少なくとも一万二千年以上前には、「別の集団として存在していた」と見られる。

「原日本人系縄文人に近い」とされているアイヌ系と沖縄系に多いタイプの割合が原ポリネシア系であり、日本本土では約二十四%、韓国では約十九%、中国では約十二%である。

さて、本題の日本語のルーツであるが、日本語の漢字読みに音読み訓読みがあるのは、漢字に翻訳機能を持たせた先人の知恵である。

大和合の国(大和の国)は、多数の渡来部族が列島各地を武力で切り取り、倭の国々が乱立していた前身から、具体的な統一を必要としていた。
多数の民族を統一して単一民族に融合するには、誓約(うけい)に拠る人種的混合と意思疎通の為に「共通語」が必要だった。

渡来部族が日本列島に遣って来た当初、原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)は言語がまったく違う為に「通訳が必要であった」と言うくらい渡来部族に取っては異民族であった。

そして縄文期から弥生期に掛け、渡来部族と原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の間で共存の為の意志の疎通と言う必要に駆られて、後に日本語と成る奇跡の言語・大和言葉が編み出された。

二百年ほど前の米国成立時の事例では、英国人が移民の主体となり先住民も少なかったので、「共通語」が英語で落着いた。

但し、二千年以上前の日本列島はかなり状況が違った。

先住系縄文人(蝦夷/えみし)の数が圧倒的に多く、渡来部族も出身国が一国ズバ抜けては居なかった所から一ヵ国の母国語に統一も成らなかった。

そこで文字は大陸文字を使用し、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の類似発音に大陸文字(中国語)を嵌め合わせたり、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の語意(ごい・語彙)で大陸文字(中国語)の読み発音をさせる事で、音読み訓読みの「大和合の国」独自の言葉を成立させた。

例を挙げると、「いっぱい/沢山」の意味の事を、アイヌ語で「オイ(oi)」と発音する。
つまり、「多(た/中文=トゥ)」を「おおい」と読ませる語源がアイヌ語の「オイ」である可能性は極めて高い。

そして自らをアイヌ(人間の意味)と名乗る部族は、渡来征服部族側からは蝦夷族(えみしぞく)と呼ばれた縄文人だった。

列島に住んで居た蝦夷族(えみしぞく/縄文人)の同化過程に、この翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)が大きな役割を持っていた事は間違いない。

同時に、この多重発音する「日本語のルーツ」そのものが、渡来氏族に拠る蝦夷族(えみしぞく/縄文人)の隷属化のツール(道具)だった事も否定出来ない事実である。

つまり、異民族・列島同居の双方が意志を通じ易い様に音読み訓読みを併用する事で、後に日本語として成立する「翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)」を、統治の必要と言う都合で編み出したのではのではないだろうか?

この解釈で推測し例をあげると、薬(やく)は中文(中国語)で、「ヤオ」と発音するが、アイヌ語ではズバリ「クスリ(kusuri)」で、豆(ず、まめ)も中文(中国語)で、「トゥ」と発音するが、アイヌ語ではズバリ「マメ(mame)」である。

勿論、この翻訳機能日本語が採用されたのは二千五百年以上前の古い時代の事であるから、現在残っているアイヌ語と当時の列島先住民・縄文人=蝦夷(えみし)の話し言葉がかなり変化していても不思議は無く全てが一致する訳ではない。

また当時の渡来部族の言葉も大和言葉として採用されたり、永い歴史の中で変化した言葉があっても不思議は無い。

アイヌ語起源としては、その他にも酒 (サケsake)、紙(カンピkanpi)、氷(コンルkonr)、遠い(トゥイマtouima)、町(マチャmaciya)、骨(ポネpone)、黒い・暗い(クンネkunne)、雷(カムイフムkamuyhum)などが挙げられる。
また、小袖(こそで・着物/きもの)は(コソンテkosonte)、糸(ヌイトnuyto)、母(ハポhapo)、~するといけない、~しないようにの意味で使う「遺憾」の語源は、アイヌ語の「イカン(ikan)」で、アイヌ語の霊能者は「ピト(pito)」で、中国語ではレンと発音するから日本語の「人(ひと)」の語源はアイヌ語ではないかと考えられる。

また、道(路/ろ)はアイヌ語で「る(ru)」で、箸(パスイ(pasuy)、女子(メノコmenoko)、岸(辺/べ)・浜(辺/べ)は(ピシpis)なども良く似ているので、列島先住民・縄文人=蝦夷(えみし/アイヌ)の話し言葉が、現代日本語の「訓読の部分ではないか?」と推定するに充分な一致や類似する意味合いの言葉が数多く存在する。

恐らくこれらも翻訳の元となり、「大和言葉の一部に成った言葉」と考えられる。

中文(中国語)では拝拝(パイパイ)と発音する「拝(おが)む」はアイヌ語ではオンカミ(onkami)で、日本語の「拝(おが)む」の語源と考えられる。

アイヌ語の「神」はカムイ(kamuy)またはクル(kur)と発音するが、日本語で「神」をカミとも発音するのはこのカムイ(kamuy)からで、アイヌ語 の犬は「セタ(seta)」で、中国語の犬(ケン)・狗(クゥ/コゥ)とも違う「イヌ」と発音する。

その「イヌ」の語源が判らないが、蝦夷(えみし)の言葉・アイヌ語で、「アイヌ(aynu)」は「人間」の意味である。

アイヌ語が原ミクロネシア語からのものとすると、「人間以外の動物または小型四足動物、或いはもっと広義の動物」を指し示す言葉として「アイヌ(aynu/人間)」の「ア」を取ったものがアイヌ語の「イヌ(ynu)」ではないのだろうか?

そうそう、当時の統治に重要なアイテムである日本語の「祈(いの)り」の語源は、アイヌ語の「祈り言葉(イノンノイクク )」、「のりと(イノンノイタク)」、「神主 (イノンノイタックル)」などからの言葉とするのが明らかと考えるのである。

アイヌ語で「フジ(huji)」は 「噴出する所」と言う意味である。

良く、この富士山の名の由来について「不死山説」を充てて信仰の対象にしているが、それはずっと時代が下がった平安期に成った頃のこじ付けである。

富士の語源がアイヌ語の「フジ(huji)」であれば、活火山として「噴出する所」・・即ち富士の山ではないだろうか?
日本語のルーツの証拠は縄文系氏族・安倍氏の起原となった安倍川と富士山にも残っている。

渡来部族の侵略行為に生き残りを掛けた誓約手段で対応したポリネシア系縄文人の部族。
富士山名称の謂(いわ)れ「フジ」はポリネシア系縄文語・噴出する所と、表記できる。

この調子で考えれば、アイヌ語の「ピリカ(pirka)」は「美しい、可愛い 良い、綺麗だ」であり、中文(ツゥンウエン・中国語)で「メィ」と発音する「美」を日本語で「び」と発音する語源も「ピリカ(pirka)」と解する事ができる。

しかし、この「翻訳機能付き文字」の事は、「天孫降(光)臨伝説」の神話を拠り所とし、単一民族国家を謳っていた日本列島の支配者階級(氏族)に取って、「歴史的な身分制度」の成り立ちの根幹に関わる不都合な問題であるから、意図的に触れずに押し通して時の流れと伴に歴史の闇に消えて行った。

アンカリング効果は学問にとっては時に有害で、日本史に於いては蝦夷蛮人説(えみしばんじんせつ)が主流だった上に、消したい過去だった事から、日本語のルーツについてこうした翻訳機能説の発想が無かったのではないだろうか?

歴史とは 犯罪と災難の記録に過ぎず、当然ながら征服部族の到来からその後の統治に到るまでの過程は、被征服者側からすれば犯罪と災難の歴史で、成立した大和朝廷もその経緯を克明に後世に伝える事は、はばかられるものである。

そこで「天孫降(光)臨伝説」をでっち上げて、統治権を正当化せざるを得無かった。

つまり大和朝廷以来昭和の大戦(第二次世界大戦)まで続いた「神国思想」にこの歴史経緯が馴染まなかったので、この経緯は「タブー扱い」と成って居た感が強いのである。

勿論、征服部族が持ち込んだ渡来言語とアイヌ語・所謂(いわゆる)蝦夷言葉(えみしことば)だけが語源ではなく、充て読みも沢山或る。

例えば、秦氏が列島に織物技術を持ち込んで織物が秦織(はたおり)になる。

大体、秦織(はたおり)が機織(はたおり)になり、服部は漢語(中国語)読みすると「ふぅふー」で、「はっとり」とはとても読めない機織部(はたおりべ)の充て読みである。

この秦氏流れ服部氏が、忍術と聖徳太子の伝承にも在る経緯で伊賀の地に住み着いて有名な伊賀流忍術継承者の一族となる。

この国の指導者階級「氏族」は、征服部族として日本列島に渡り来た時、様々な最新技術を持ち込んだ。

そしてその最新技術は、それぞれの「氏族」の秘伝専有の無形財産だった。

従って、標準化量産工業の従事者として比較的地位が低かった他国の鉱工業技術者と違い、この国の鉱工業(製薬・機織り・鉱山開発・鍛冶製鉄・鋳造・造船・製薬)や稲作術などは全て指導者階級の「氏族」が専有した技術であり、永い事武士や宗教と兼業の誇り高いものだった。

物造りに「高精度・高級」の「誰々作」と言う特別な思い入れの感性と価値観を持つ日本人の、「高度技術立国のルーツ」がこの歴史的な経緯にある。

この日本人気質とでも言うべき資質が、欧米の「マニュアル型・標準化量産工業」とは異なる手造り「高精度・高級」の「誰々作」は、日本の誇るべき熟練技術力の源である。

日本が世界に誇るべき熟練技術力は、日本人の特別な思い入れの感性と価値観に裏打ちされて、町工場に到るまで浸透している。

しかし残念ながら、現在の大企業優先政策により中小零細を取り巻く経済環境の悪化で、この熟練技術力を継承させる土壌を失いつつあるのが現在の日本の現状である。

征服部族達が部族ごとに日本列島に渡り来て勝手に土地を切り取り、都市国家もどきの倭の国々を成立、それらが大和合して日本列島の西半分に統一国家・大和朝廷を討ち立てた。

その頃の東半分はどう成っていたかと言うと、蝦夷(エミシ)の領域で在った。

つまり、倭国以前から原住する日本列島固有の原住民族がいた。日本史の中で、意図的に抹殺された蝦夷(エミシ)の存在である。

古代史の時代に遡ると、日本列島には一万年以上前の「縄文文化」の以前からの原住民族がいた。

これも遺伝学的に言うと、単一では無かったらしい。

そこへ、大陸から別の種族が移動して来てやがて、原住民と古い渡来人が同化、縄文文化が始まる。

大陸からの列島渡来は恒常的に続いていて、徐々に進歩した文化がその都度もたらされていた。倭人が侵入してくる頃には、同化してひと括(くく)りに蝦夷(エミシ)族と成っていた。そして、何時の頃からか稲作も始まっていた。

蝦夷は、恐らくは古い時期の大陸からの「稲作・渡来民族と縄文人の同化民族」であったと推測できる。

渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。

そして蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の存在が、渡来氏族との同化過程で日本史から抹殺されたが為に、日本語の起源論議から蝦夷族(えみしぞく)の存在を欠落させてしまった。

つまり、蝦夷族(えみしぞく)と渡来氏族との同化過程を経て日本民族が成立した事を念頭に置かないと、日本語の起源がトンデモナイ方向に行ってしまうのである。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に拠ると、「卑弥呼」と言う女王がいた。

治める国は、邪馬台国である。

その地が何処に在ったか、未だに学者達は論争の最中である。

大和の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。
この卑弥呼が、比売(ひめ)大神(おおみかみ)=(比売の命(ひめのみこと)と同一人物の可能性がある。

大陸・魏帝国の魏志倭人伝に見える倭国内の国々の一つである邪馬台国の女王は、「卑弥呼」と記されている。
この卑弥呼は日本の歴史上謎の人物だが、卑弥呼は大陸・魏帝国側が列島側の音(オン)を漢字(中国語の音)に充てた表記ではないだろうか?

邪馬台国の国家の運営は、卑弥呼の御託宣(シャーマニズム)を背景に行なわれていた。
そのシャーマニズムの根幹、御託宣を為す存在が火(アピ/火の意)だったのである。

アピ(火/原ポリネシア語)は、先住蝦夷(エミシ)の族長一派が名乗り、縄文期の列島の首領(火を操る指導者)の尊称である。
その娘はアピの娘(アピミコ=火皇女)であり、日女皇子(ヒメミコ/火女皇子)とも言う。
つまり邪馬台国の女王「卑弥呼」は尊称で、卑弥呼には別な固有名があった筈である。

女(おんな)は中文(ツンウぇン・中国語)で「ニュョイ」であるが、アイヌ語では巫術女(みじゅつめ/巫女・みこ)の事をオイナ・カムイ(oyna ・kamuy)と言い、このオイナ(oyna)が「女(おんな)の語源ではないか」と考えている。

原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音である。

占術、呪術に於いて火(炎)は重要なアイテムで、日本語の火(ひ)は、韓語(ハングル)では火(プル)、中語(ツゥンウェン・中文)では火(フォ)であるから、火を「ヒ」と発音する事も「アピ」が訛って「ピ」に成った可能性が高い。

魏志倭人伝(中国語)が意味よりも音(オン)を優先すれば「卑弥呼(火皇女=ヒミコ/ピミコ)」と充てる事は充分考えられる。

比売(ヒメ)は神代の神格化した女性に対する尊称で、後世の代の姫に通じる。

そこで九州・宇佐神宮(宇佐八幡宮)に鎮座まします「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」が、邪馬台国の女王「卑弥呼」で有っても不思議は無い。

日本史の各時代に顔を出す「安倍」を冠する地名が、静岡県の中部に存在した。
安倍郡(あべぐん)は、駿河国(するがのくに・珠琉河国・須琉加国・静岡県)にあった郡である。

古代の駿河は珠琉河(又は須琉加)と表記し、珠琉河国造(富士・沼津・伊豆)が統治していた。
その後、七世紀になって、廬原国造(旧清水・庵原)の領域と併せて中世・駿河国を建てた。

この時の領域は広大で、現在の静岡県の中部と東部に、伊豆半島や伊豆諸島を含んでいた。
なお、「駿河」の地名の由来は、富士川の「急流に由来する」とも言われている。

駿河国(郡郷 全七郡五十九郷・人口 七万五千五百人)の国府は、当初駿河郡に所在したが、後には安倍郡に所在を移している。
つまり、七世紀後半に初めて令制国(りょうせいこく)が施行されるそのズット以前から、駿河国安倍郡は存在した。

その後、天武大王(おおきみ/天皇)の御世(天武九年・六百八十年)に、歴史的に特別な経緯が在った伊豆の地(東部の二郡)を分離して伊豆国を設置した。

それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市)にあった国府を安倍郡(現在の静岡市葵区と駿河区あたり)に移している。

それだけ古くから在るのだから、「安倍」と言う地名は、由緒があるに違いない。
しかし、この地が何ゆえ「安倍」と呼ばれるかの由来は不明である。

安倍郡(あべのこおり)は令制国・駿河国(駿州)の郡で、平安時代の「延喜式神名帳」に記載されている中津神社(住吉神社)が、「安倍郡に所在する」などの記載は存在するが、安倍郡(あべのこおり)の名の由来は、見当たらない。

これは、信憑性を証明出来ないものでは有るが、僅かに「安倍川」命名の源と思われる説がある。

伝承文献に拠ると、神武大王(おおきみ/初代天皇)の東征に反乱した人物とされる「長髓彦(ながすねひこ)」とその兄「安日彦」(あびひこ)を始祖とする一族が存在し、その「安日彦(あびひこ)」の子孫である「安東(あんどう)」と言う人物(将軍)が、崇神大王(おおきみ/第十代天皇)の御世に「安倍川別命」(あべかわ、わけのみこと)に降服し、以来安倍姓を賜り「以後、安倍将軍を称した」と言う説がある。
この「安倍将軍」の子孫が、東北の雄・俘囚長の「安倍宗任(あべのむねとう)、貞任(あべのさだとう)兄弟だ」と言うのである。

この説の前提が、民族和合の為の「後世の辻褄合わせの作文」と仮定した場合、「長髓彦(ながすねひこ)」と「安日彦(あびひこ)」の反乱は、実は反乱ではなく「縄文人系の部族(えみし・蝦夷)」に拠る神武大王(おおきみ/初代天皇)東征への「抵抗戦」とも考えられる。

それであれば、東海から東や東北に追われる縄文人系の部族(えみし・蝦夷)と渡来系征服部族の勢力境界線が一時安倍川に在り、その辺りから「安倍川別命」(あべかわ、わけのみこと)と言う名が「登場した」としても「別命(わけのみこと)」とは、読んでそれらしき名前(境界の意味)で、頷けるのでは無いだろうか?

安倍郡(あべのこおり)は、奈良時代から明治維新以後まで続き、その後近代から現代にかけて合併、編入を繰り返し、千九百六十九年一月に安倍郡は消滅、二千三年四月以降旧安倍郡の全域が静岡市に含まれる。

一級水系・安倍川は、静岡・山梨県境の安倍峠付近(山梨県早川町との境にある大谷嶺)に発し、太平洋側に南流して 静岡市で駿河湾に注ぐ幹川流路延長 五十一キロメートルの河川である。
現在、安倍の地名は静岡市を流れる河川「安倍川」と、上流の砂金と徳川家康(とくがわいえやす)の逸話に由来する「安倍川餅」に名残を残すのみである。

駿河国安倍郡(現静岡市)には「草薙(くさなぎ)」と言う地名があり、日本武尊(ヤマトタケル)の東征(蛮族討伐)にあたり、この地で包囲され火炎攻めに合い、三種の神器の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇・ヤマタノオロチ・の尾から出てきた太刀)で「草をなぎ倒して難を逃れた」と神話が伝えている。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、別名を草薙可神剣(くさなぎのみつるぎ)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)とも称され熱田神宮の神体であるとともに、三種の神器(みくさのかむだから)として天皇の持つ武力の象徴である。

この物語から察するに、大和朝廷創生期の頃は、この安倍の地が「蛮族の勢力範囲だった」と考えられない事もない。

さて、この安倍(あべ)の名称だが、どうやら海洋民族系の名称に漢字を充てた様な気がする。
一説によると、「原ポリネシア語が日本語の基盤の一つである」と言われて居る。
その原ポリネシア語は、アイヌ民族の言語と共通するものが多いとも言われて居る。

原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音であるが、その音に中国語系の文字「安倍(アンペイ、アペイ)」を充てたのではないかと考えている。

ちなみに「アイヌ(aynu)」と言う言葉は蝦夷(えみし)の言葉・アイヌ語で「人間」の意味である。
先住系縄文人(蝦夷/えみし)、大陸系渡来部族、海洋系渡来部族と複雑に人種の坩堝(るつぼ)だった日本列島では、意思疎通の為に「共通語」が必要である。

但し先住系縄文人(蝦夷/えみし)の数が圧倒的に多く、渡来部族も出身国が一国ずば抜けては居なかった所から一ヵ国の母国語に統一も成らず、そこで文字は大陸文字を使用し、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の類似発音に大陸文字(中国語)を嵌め合わせたり、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の語意(ごい・語彙)で大陸文字(中国語)の読み発音をさせる事で、音読み訓読みの日本独自の言葉を成立させた。

つまり当時人種の坩堝(るつぼ)だった列島において、中国文字(中文/ツンウェン)に音読み訓読みを併用する事で、翻訳機能をもった「一文字について多重発音語(大和言葉)を編み出したのではのでは」と考えられる。

ここから先は完全に仮説だが、可能性があるので、記述して置く。

大和朝廷における貴族・土御門安倍氏が、恭順した蛮族(あくまでも朝廷側の言い分・エミシ族)の指導者であり、珠流河国造の少し前、シャーマン的指導力を持つエミシ族の長「火(アピェ・ape)」が、駿河国安倍郡辺りに「勢力を有していたのではないか」と考えないと、安倍を冠する地名が、静岡県の中部に存在した理由は思い当たらないのである。

安倍川が極古い時代の「蝦夷(えみし)族と渡来氏族の勢力境界線であった」とすれば、富士山の名の由来も理解出来る。
前述したが、アイヌ語で「フジ(huji)」は 「噴出する所」と言う意味である。

アイヌ語の単純な火は「火(アピapi)」であるが、アイヌ語の「火の神」の火は「火(アピapi)」を使わず「火(フチfuti)」である。

火の神 (カムイフチkamuifuti)の火(フチfuti)が「火山=火の神」の言語生成図式ならば、「噴出する所(フチfuti)=火の神の火(フチfuti)」が成り立つ。

渡来氏族の「あれを何んと呼ぶ?」と言う問い掛けへの蝦夷(えみし)族の答えが、「フジ(huji・噴出する所)」であった可能性は極めて高くなり、アピェ(ape・火の意)のカムイ(kamuy・神)が、フジ(huji・噴出する所)・・・「活火山富士山」と解する事ができるのである。 そして、恭順合流した先住蝦夷(エミシ)の族長一派が「火(アピェ・ape)」を名乗るからこそ、後の俘囚長、東北の「安倍氏」が存在するのではないのだろうか?

この辺りの経緯については、政治的配慮からか、七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀にはまったく記述はない。

占術、呪術に於いて、火(炎=アピェ・ape=安倍)は重要なアイテムである。
日本語の火(ひ)は、韓語(ハングル)では火(プル)、中語(ツゥンウエン・中文)では火(フォ)であるから、この火(ひ)の語源は日本語の基盤の一つである原ポリネシア系原語である「アピ(火の意)ではないか?」と考えても不思議ではない。

そう考えると、先住民族・蝦夷(エミシ)族の陰陽修験道・陰陽寮頭の安倍「アピ(火の意)」御門一族は、占術、呪術の一族としての立場を確立しても不思議ではない。

この原日本列島の民(先住民族)、蝦夷(エミシ)族の占術、呪術と後発の渡来民族・葛城御門(賀茂氏)の御託宣神である事代主神(ことしろぬしのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)が合体したのが「陰陽修験道」と言う訳である。

尚、賀茂・葛城や事代主神(ことしろぬしのかみ)の由来については、我輩の別の小論葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説に詳しく記述してある。

六百年代(奈良時代)、どうも渡来部族では無いらしい阿倍氏が歴史書に現れる。
左大臣・阿倍倉橋麿(あべのくらはしまろ)と越国守・阿倍比羅夫(あべのひらふ)と言った顔ぶれである。
越国(現在の越前・越中・越後を合わせた国)・阿倍氏は、独立した有力部族説があり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)や阿倍氏一族が、どの時点で大和朝廷に参加(一体化)したのか、現時点では定説はない。

藤原氏の台頭に時を合わせるように力を失って行く古代の有力豪族、大和朝廷黎明期の阿倍氏、阿倍倉橋麿や阿倍比羅夫について、その出自が所謂(いわゆる)土着の部族王・御門(みかど/臣王)であれば色々と説明が着く。

そして越後守(越後国主)は、まさに臣王(おみおう/御門)であり、中央の大和朝廷が任命派遣したのではなく、都市国家もどきの小国群の残滓(ざんし)、既存の越国(えつのくに)の部族王・御門(みかど/臣王)の阿倍比羅夫を「越国守と追認した」と考えるのである。
安倍清明(あべのせいめい)は、阿倍倉橋麿から数えて九代目の子孫にあたり、阿倍倉橋麿と阿倍比羅夫(あべのひらふ)は「従弟にあたる」と言う説もある。

この阿倍氏と安倍氏は古代の系図上同じとされ、阿倍氏は孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)を祖先とする皇別氏族とされるが確たる証拠は無い。

歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)の大夫(だいふ)であった阿倍大麻呂(あべのおまろ)が初見であるが、大と火の書文字が似ている事から阿倍火麻呂(あべのほまろ)とする説もある。
つまり阿倍氏として始めて中央に登場する阿倍大麻呂(あべのおまろ)なる人物が、この物語で述べる阿倍氏蝦夷王説の「安倍=アピエ(火)説」と別説名・火麻呂(ほまろ)の名の一致点は偶然だろうか?

そして阿倍氏は、まだ大和朝廷(ヤマト王権)の統治が落ち着かない東国支配の強化に朝命を持って活躍し、その子孫が蝦夷俘囚長の奥州安倍氏(引田系阿倍氏)・安倍貞任(あべのさだとう)、安倍宗任(あべのむねとう)兄弟に繋がると言うのだ。
貞任(さだとう)、安倍宗任(むねとう)兄弟の父・安倍頼時(あべのよりとき)は平安中期の陸奥(むつ)の豪族で、千五十年代に前九年の役で源頼義・義家父子と戦っている。

一方、中央に在った阿倍朝臣(あべあそみ)阿倍氏は、大化の改新の新政権で左大臣・阿倍倉梯麿(あべのくらはしまろ・六百八十年代活躍)、遣唐留学生から唐帝国高官・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ・七百五十年代活躍)などを経て、九百年代中期に陰陽師・安倍清明を輩出、以後土御門家として陰陽頭を任ずる貴族となる。

この阿倍氏は、一説に拠ると阿倍氏は欠史八代(実在しないとみられている天皇)とされる第八代・孝元天皇の皇子・大彦命の末裔で、大和朝廷(ヤマト王権)では北陸・東国経営に大きく関った為に、「アベの一族」は現在でも東日本に多いとされている。

孝元天皇の皇子・大彦命については、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にその名が刻まれた事から「実在する」との説もあるが、何しろ実在を疑われている聖徳太子にしてもその名をかざす寺が建立されるなど、出土品が事実を示すかどうかの検証は難しい。

孝元天皇の末裔説については、「アベの一族」が北陸・東国経営に大きく関ったされる事も、逆説的考えれば古代の独立した部族王が大和朝廷(ヤマト王権)に合流するに際し、皇統のすきまを繕い、有力王族(部族王)の符系を政治的にまとめた疑いが強く感じられる。

いずれにしても安倍氏は、六百年代(奈良時代)に成って突然古代豪族・阿倍氏として登場し、その本拠地とした所が奈良県桜井市に「安倍」や「阿部」と言う地名となって残っている。

阿部氏・安倍氏の蝦夷族長説に付いての裏付けとしては、我輩は我が国古代の装身具である翡翠の勾玉(ひすいのまがたま)に注目した。

前述の様に、阿部氏・安倍氏が土着の部族王・御門(みかど/臣王)であれば、越後守(越後国主)は正に臣王(おみおう/御門)であり、我が国古代に於いて固有の装身具・翡翠勾玉(ひすいまがたま)の翡翠(ひすい)は、その越後国(新潟)糸魚川が唯一の産出地である。

そして勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、日本史では「先史」とされている古事記・日本書紀に於ける記述以前の古代史に於いて日本に於ける装身具の一つであり、「祭祀にも用いられていた」と言われるが、「先史」は大和朝廷(ヤマト王権)に於いて意図的に葬られたので詳細は分からない。

しかし勾玉(まがたま)が、列島固有の装身具として「先史(縄文)時代」から存在した物であれば、三種の神器(みくさのかむだから)の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は何を意味しているのだろうか?

古墳時代前期の古墳から硬玉翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が出土する事が多く、大阪府和泉市黄金塚古墳では、大小の勾玉が三十四個も見つかり、この内には翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が二十六個が含まれている。
そしてこの古墳時代前期が、越後国の蝦夷族部族王・阿部氏・安倍氏が大和朝廷(ヤマト王権)に合流しつつある時期だったのではないだろうか?


日本の神道は氏族の氏神(氏上)であり、渡来部族の支配を確立する為に神格化させ、縄文人(蝦夷族)の土着信仰と融合させた物だ。

そして勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、縄文期から古墳期にかけての「先史」と言われる時代、つまり「古事記・日本書紀」で日本史が天孫降臨伝説に捏造される以前の時代に存在した祭祀的意味合いを持った装身具で、平安期には姿を消した物だった。

当然ながら、勾玉(まがたま)が縄文人(蝦夷族)の土着信仰に関係があるのであれば、渡来部族と縄文人(蝦夷族)が混在した縄文期から古墳期にかけての融合期にのみ集中していた訳である。
つまり土偶(どぐう)や勾玉(まがたま)と言った縄文文化は、「古事記・日本書紀」の天孫降臨伝説とその伝説喧伝工作を担った陰陽修験の活躍にかき消されてしまったのだ。

「まがたま」の言葉(語)の初出は「記紀」にあり、「古事記」には「曲玉(まがたま)」、「日本書紀」には「勾玉(まがたま)」の表記が見られ、語源は「曲っている玉」から来ていると言う説が有力である。

多くは、アルベットの「C」の字形またはカタカナの「コ」の字形に湾曲した玉から尾が出たような形をして居り、丸く膨らんだ一端に穴を開けて紐を通し、首飾りとした。
孔のある一端を頭、湾曲部の内側を腹、外側を背と呼び、多くは翡翠、瑪瑙、水晶、滑石、琥珀、鼈甲で作られ、土器製のものもある。

その勾玉(まがたま)の形状は、「元が動物の牙であった」とする説や、母親の胎内にいる「初期の胎児の形を表す」とする説などがあるが列島固有の装身具で、古代の日本列島が文化的な影響を受けたとされる中華大陸側には勾玉(まがたま)に相当するものは無い。

現在では縄文時代極初期の玦状耳飾(けつじょうくびかざ)りが勾玉(まがたま)の原型であると考えられており、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。

この勾玉(まがたま)の装飾文化は朝鮮半島へも伝播し、紀元前六世紀から七世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉(まがたま)が見られる。

縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期には「C」字形の勾玉(まがたま)が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化している。
「先史」とされている縄文時代を通じて勾玉(まがたま)の大きさは、比較的小さかったが、大和朝廷(ヤマト王権)が列島の西側に成立した弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉(まがたま)が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。

三種の神器(みくさのかむだから)の一つに、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が存在する事から、大和朝廷(ヤマト王権)が渡来部族と原住縄文系民族(蝦夷族)との和合に力を入れた結果ではなかったのか?

六世紀初めには、製作される数が少なくなり、その後、奈良時代には寺院の芯礎に納められたり、仏像の装飾に使用されることはあったが、あくまでも古来の伝世品で、新規に製作されたものではない。


謎が多過ぎる氏族とされるこの安倍氏・安倍氏の謎については、日本人単一民族説や大和朝廷(ヤマト王権)の貴族が全て渡来氏族と錯誤していては永久に解決しないのではないだろうか?

七世紀(奈良時代末期)の中頃には、大和朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いで北陸の越国まで達しており、この頃の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は大和朝廷の将軍で越国守を任じ、北陸の越国(えつのくに)の国司をしていた。
つまり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は大和朝廷の勢力範囲の最前線に居て、阿倍氏一族の内、「引田臣」と呼ばれる集団を率いていた。

また一説に拠ると越国(えつのくに)・阿倍氏は、独立した有力部族長説(国主=国造=倭国王の一人)があり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)や阿倍氏一族が、どの時点で大和朝廷に参加(一体化)したのか、現時点では定説はない。

安倍清明は、阿倍倉橋麿から数えて九代目の子孫にあたり、阿倍倉橋麿と阿倍比羅夫(あべのひらふ)は「従弟にあたる」と言う説もある。
この説では阿倍比羅夫(あべのひらふ)は後の「前九年の役」の源氏の敵役、俘囚長と言われた安倍貞任の七代先祖である。

すると、阿倍氏・安倍氏には蝦夷王(えみしおう)の立場と大和朝廷(ヤマト王権)下での臣王(国造/くにのみやっこ)の立場が並立する。
民族的抵抗派を抑えるのは同族の恭順派を使うのが古今の常識だから、或いは早い時期に恭順した蝦夷王(えみしおう)・阿倍氏・安倍氏が、マツラワヌ蝦夷族(えみしぞく)を大和朝廷(ヤマト王権)に恭順させる役目を負って居たのではないだろうか?

阿倍氏が「早い時期に大和朝廷に帰属した蝦夷族長の血筋で有る」と疑うには、源氏の東征で奥州の安倍一族が「浮囚長」と蛮族扱いにされ、討たれている点だけではない。
阿倍比羅夫(あべのひらふ)の活躍の内容に、疑いが感じられるからだ。

日本書紀によれば、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は六百五十八年に水軍百八十隻を率いて日本列島東北部の蝦夷を討ち、さらに「粛慎(ミセハシ)」を平らげた。
粛慎(ミセハシ)は本来満州東部に住むツングース系民族を指すが、日本書紀がどの様な意味でこの語を使用しているのか不明である。

実は北東アジア大陸の諸族をツングース系民族と言うのだが、ツングース系民族は地形上ロシア人との交易も盛んで、民族事情を良く知らない第三者にはロシア人をツングース系民族と混同する可能性も在り、日本書紀の中の粛慎(ミセハシ)の記述が中国文献中の粛慎(しゅくしん)と同じものであるとは言い切れない。
それにしても、この阿倍比羅夫(あべのひらふ)の東北進攻、は六百三十年(奈良時代)頃の白村江(はくすきのえ)の戦いと時期が一致していて、時期としては大いに違和感を感じる。

半島で百済と新羅とが戦火を交え、大和朝廷(ヤマト王権)も百済に援軍を送っている時にしては、よくも大軍を「奥州に派遣できた」と、若干の疑問も残る。

東北蝦夷統一王の安倍氏の歴史を大和朝廷の成果として後世に伝える為に、時代をずらして日本書紀に組み込んだ可能性もある。
または、阿倍比羅夫(越国・えつのくに)はまだまったく別の勢力(部族国家)として独立していて別行動を取っていたのだが、後に大和朝廷に合流して「朝廷の歴史として後で組み込まれた」と、考え得るのかも知れない。

阿倍比羅夫(越国・えつのくに)が大和朝廷(ヤマト王権)とは別の勢力(部族国家)であれば、後の桓武天皇が命じて行なわれた七百八十年代後半の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)の東北派兵やその後七百九十年代始めの征夷大使・大伴弟麻呂、征夷副使・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の蝦夷征伐が符合する。

また相当時代が下がった千五十年代に起こる奥州(東北)鎮守府将軍・源頼義(みなもとよりよし)と蝦夷(えみし)俘囚長・安倍氏・安倍貞任(あべのさだとう)らとの前九年の役(ぜんくねんのえき)とも出来事に符合して来るのである。

現在の秋田県の雄物川の河口のアギタ浦(いまの秋田市) に着いた時、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順した。
阿倍比羅夫はこの恩荷に「小乙上(しょうおつじょう)」と言う、六百四十九年(大化五年・奈良時代)施行の「冠位十九階」中十七位の官位を与えている。

しかしこの辺りの日本書紀の記述は、阿倍比羅夫(越国・えつのくに)独立説とは矛盾するが、日本書紀が編纂されたのは比羅夫が活躍した時代から百五十年も後の事で、この「官位を与えた」は辻褄合わせの可能性が高い。

その後、阿倍比羅夫は更に北ヘ行き、ヌシロ(能代) ツガル(津軽)の蝦夷の頭領を郡領(コオリノミヤッコ)に任命している。
そして、有間浜(岩木川の河口?)に渡島(今の北海道)の蝦夷を集めて懐柔の饗応をしている。

更に、肉入籠(シシリコ)に至って 後方羊蹄(シリベシ)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いた。
同年七月には、二百余人の蝦夷が飛鳥の朝廷に朝貢(ちょうこう)に来ている。
その後、六百六十年(斉明六年)三月には、阿倍比羅夫は二百艘の大船団を引き連れて第二次遠征に出発している。

阿倍比羅夫がある大河の河口に来ると、渡島(ワタリシマ・北海道)の蝦夷が千人ほど集まっており、この中から二人の蝦夷が走り出して来て、「ここに突然粛慎(ミセハシ)の船が襲って来たので助けて欲しい」と安倍比羅夫に懇願した。

そうこうする内に粛慎(ミセハシ)が比羅夫を攻撃して来たので、両軍は矛を交える事になった。
これには征服をしに来た比羅夫に助けを求めるなど、記述内容に矛盾がある。
だとすると、推測するに比羅夫本人が「蝦夷の王」だからこそ比羅夫に助けを求めたのではないのか?

比羅夫は戦闘の末、粛慎(ミセハシ)の内四十九名を捕足したが、比羅夫の側にも能登臣・馬身竜が戦死している。

面白い事に、メラニン色素の割合で言っても「秋田美人」に喩えられる秋田の人の白人のような肌の白さは東北の中でも群を抜く結果となっていて、秋田県を中心とする東北の一部に明らかに白人との混血種日本人が多く存在してる事も知られている。
或いはそれらが、有史以前に日本列島に到達していた粛慎(ミセハシ)と呼ぶ実は欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。

この粛慎(ミセハシ)と言う部族は少なくともこの地方・奥州や渡島(現・北海道)に住んでいる蝦夷とは違った種族だった。
彼ら捕虜は生きた熊二頭と熊の皮七十枚と一緒に朝廷に戦利品として献上されている。

秋田美人と粛慎(ミセハシ)の謎に関わり、有史以前に日本列島に到達していた粛慎(ミセハシ)と呼ぶ欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。
その事を前提にすると、先入観では消化し切れない埋没した歴史がまだ存在するのかも知れない。

実は粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族は白人種ではあるが「ヘブライ(ユダヤ)人の血流が濃い人種で在ったのではないか」と推測される痕跡が、奥州(東北地区)各地に存在する。

その指摘をされたのが岩手県出身の神学者・川守田英二博士で、長期に渡ってサンフランシスコで邦人キリスト教会の牧師をしながら「古代ヘブライ(ユダヤ)語を研究した」と伝えられている。
川守田英二氏が着目したのは青森県下北から南部地方に伝わる民謡「ナニャドヤラ」で、「ナニャドヤラは古代ヘブライ(ユダヤ)語である」と言うのだ。

青森県の新郷村と言う所には、伝・「キリストの墓」がある。
新郷村は古くは「戸来村」と言われていて、ヘブライに漢字を当てると‘戸無来’となり、無は無いから取ると戸来村となる。
新郷村に入ると「ようこそキリスト村へ」と言うアーケードが迎え、案内に沿って山を登ると十字架が二つ立っている。

その十字架二つはキリストと、キリストの双子の弟の墓だと伝えられている。
案内板には「ゴルゴダで処刑されたのはキリストの双子の弟イスキリの方で、兄は生きてこの地まで逃げ、この地で生涯を全うしたそうだ。

まぁ信仰絡みの伝説には、信者の希望を未来に伝える傾向もある事からキリスト本人が渡来して来たのか、信者が「キリストは我等と伴にあり」と信じての創作なのかは定かではない。

この新郷村の民は、「キリストの墓」の周りに円を描いて「ナニャドヤラ」の盆踊りを歌い踊る。
つまり新郷村にはイスラエルの風習と思われるものが残っており、その代表的なものが「ナニャドラヤ盆踊り」と言われている。
地元の年寄りでも意味は分からないかったが、川守田氏は「ナニャドヤラ」の歌詞を古代ヘブライ語の進軍歌と訳した。

ナーニャード・ヤラヨウ(御前に聖名をほめ讃えん)、ナーナャード・ナアサアレ・ダハアデ・サーエ(御前に毛人を討伐して)、ナーニャード・ヤラヨ(御前に聖名をほめ讃えん)と言う意味であると発表したのだ。

川守田英二氏の説に拠ると青森県から岩手県にかけて散在する地名の一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)、そして十和田は、失われた渡来ユダヤ十(十字)支族に関係あるとしている。

「ナニャドヤラ」の歌詞は全部の歌詞が意味不明のまま伝えられており、神学学者・川守田英二博士はその意味をヘブライ語とすれば解読出来るとしている。
つまり、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)、ナニャドナサレノ(お前に毛人を掃討し)、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)と訳せるそうだ。

紀元前六百八十六年頃に流浪の民となって世界に散らばったヘブライ(ユダヤ)人が、「古代にこの地に来た」と言う事は否定できない。

日本列島から遠く離れたヘブライ(ユダヤ)発祥の地(現イスライル)を思えば、この話しはにわかに信じ難いかも知れない。
だが、流浪の民がユーラシア大陸を東方へ伝い彷徨(さまよ)い、渡海して日本列島に渡って来ても不思議は無い。

何故ならその痕跡はこの新郷村に止まらないからで、事実「ナニャドヤラ」の踊りは下北半島でも踊られている。
またねぶた祭りで有名な青森市で、ねぶたを囲んで踊るハネトの掛け声「ラッセラー・ラッセラー・ラッセ・ラッセ・ラッセラー」も又、ヘブライ語なら理解できる。
川守田英二博士の訳では、その掛け声を「動かせ・動かせ・高きへ進め」と訳せると言うのだ。

弘前のねぷたの「ヤーヤードゥ」は「エハボを讃えよ」となり、全国の祭りで山車を引く時「エンヤラヤー」と言う掛け声を発する。
この掛け声もヘブライ語「エァニ・アハレ・ヤー」に訳すと「私はヤハウェを賛美する」となると言う。

また川守田氏は、日本各地に伝わる民謡の囃子言葉のほとんどが同じように「古代ヘブライ(ユダヤ)語ではなかろうか」と言う。
その指摘で、佐渡おけさでは「アーリャ・サ」、ソーラン節の「ヤーレン・ソーラン」、よさこい節の「ヨサー・コイ」などの意味不明とされる囃子言葉を挙げている。

正直、川守田英二博士の説は現在ではまだ異説の範疇にあるが、秋田美人に代表される白人種の痕跡や「ナニャドヤラ」の習慣は現に奥州(各地)に存在する謎である。
となると、日本列島側の倭の国々の中には想わぬ部族の古代国も在った訳で、益々人種の坩堝(るつぼ)だった他部族(他民族)小国家時代が存在した事に成る。

そして粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族がロシア側に近い朝鮮半島から小船を漕ぎ出すと、対馬海流に乗って漂着するのは青森県辺りだそうで、辻褄が合う話なのだ。

青森県十和田湖外輪山の一つである戸来岳(大駒ヶ岳、三ッ岳)に面し、十和田湖の東側に位置し西を秋田県との境に位置する三戸郡の村が新郷村(しんごうむら)である。
新郷村(しんごうむら)にはユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家(旧家沢口家)があり、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書く風習がある。

このユダヤの紋章(ダビデの星)と伊勢神宮・伊雑宮の御食地の海女が身に着ける魔除けに、セーマンドーマンまたはドーマンセーマンと呼ばれるデザインが酷似している。
この呼び名のはっきりとした謂われは伝わっていないが、陰陽道の占いで使用する星形のマークは安倍晴明の判紋(五芒星)、格子状のマークは九字紋と同じ形状である。

奥州(東北)と切っても切れないのが東北蝦夷(エミシ)の安倍氏(安倍御門)である。
その安倍氏族・安倍晴明が使う判紋(五芒星)がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似しているとなると、これはもう偶然とは言い難い。

九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法に拠ってできる図形)をしていて、意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰って来る」と言う意味でもある。

キリスト信仰には「復活」があり、この陰陽道五芒星がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似してなお意味まで一致している。

となると、紀元前の日本古代史の中に渡来ヘブライ(ユダヤ)人の失われた歴史が在り、日本の古代信仰にその影響を残したのではないだろうか?

陰陽師として有名な安倍晴明は、歴史に忽然と姿を現している。
陰陽道を創設したのが賀茂氏であり、神武朝から葛城朝に大和朝廷が変わっていたから、本来なら中務省・陰陽寮の首座(陰陽頭)は賀茂氏でなければならない。

それなのに賀茂氏(賀茂忠行・賀茂保憲)は、わざわざ安倍晴明を弟子にして陰陽寮の首座(陰陽頭)に据え、自らは副首座(陰陽助)に下った。
そこに重大な、何か隠された意味が在って当然ではないだろうか?

調べてみると、賀茂忠行・賀茂保憲父子が実子の賀茂光栄でなく、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明に、天文道を伝えたにはそれなりの訳がある。

実は朝廷の強い要請に拠るのである。
元を正せば勘解由小路(賀茂)家は、代々鵺(ぬえ)・土蜘蛛・鬼を管理監督する初期陰陽修験道の家柄で有る。

処が、当時はまだ中々根強い抵抗勢力が残っていて、朝廷も手に余っていた。
つまり、先住部族を国家体制に取り込むには、有力部族長・安倍氏を取り込み、蝦夷の原始信仰をも取り込まねばならない。

実は、安部清明の「安倍」は東北最大の蝦夷族長(俘囚長)と同じ血統の出自で有る。
言うなれば、元々進入征服部族の寄り合い所帯だった朝廷は、「天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった」と言う神話において象徴される新旧民族の融和(誓約)の夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)として登場する猿田毘古神(サルタヒコ)側の蝦夷族長を貴族として取り込む事によって同化政策を進め、国家体制を固める思惑があった。

それで、征服部族が自分達を「神々の子孫」と言う神話を作ったように、土蜘蛛を治め導く陰陽師の頭「陰陽寮首座の貴族」に安倍家を据える必要があったのである。
「突拍子もない説」と否定するかも知れないが、安倍家の朝廷からの賜姓を良く読んで欲しい。
「貴族・土御門家」である。
これを素直に読むと土蜘蛛、或いは土族(つちぞく)の帝・・・「つちみかど」なのである。
そして、宮中で、天文学を操って都の平穏を呪詛すると同時に、蝦夷の「統括及び民意誘導」を執り行う陰陽寮の長官・陰陽頭を任じたのである。

この、後に帝(中文でデェイ/ティ)を「ミカド」と読ませる基になった「御門(みかど)」と言う使い方、蘇我氏などの臣王の文献にも使用され、「蘇我御門」などの表記もある事から、「部族王を表わす」基準としての表記なのかも知れない。

その後「平家一門」などのグループ表記に「門」が使用される「元に成った」と考えられる。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は、「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行く。

余談で有るが、道教系・陰陽師の安部清明は宮中秘祭・「泰山府君(北辰大祭)」祭祀を司り宮中に大きな勢力を持った。
「泰山府君」とは陰陽道の主神、冥府(めいふ)の神である。

冥府とは霊界(地獄・天国)に続く三途の川の場所で、成仏できない魂の彷徨(さまよう)場所を言う。

つまり、北斗・北辰(北極星)の方位を示す「みちしるべ」の妙見信仰と冥府を彷徨(さまよう)成仏できない魂のマッチングが、安部清明が提唱した泰山府君祭祀(北辰大祭)なのである。

同系列のアイヌ語話題として大和(やまと)のまほろば(マホロバ)に続く

普通の人間が思考すると、頭を使う事を面倒くさがって単純な白黒の答えで決着を着けたがる。
また、時の政権が統治の為に報じた定説を鵜呑みにして、思考を停止してしまう事も多々在る。

しかし物事の本質はそんな簡単なものでは無く、裏の裏にまで想いを馳せないと本当の真実には辿り着かない。
まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。


古代史を学ぶと、必ず「まほろば/マホロバ」と言う言葉に出会う。

「まほろば/麻本呂婆(マホロバ)」とは、「素晴らしい場所」或いは「住みやすい場所」と言う意味の日本の古語と現在に伝えられている。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト・倭建命)が詠んだと伝えられる「夜麻登波久爾能麻本呂婆  多多那豆久阿袁加岐  夜麻碁母禮流  夜麻登志宇流波斯」は、「大和(やまと)は国のまほろば  たたなずく青垣  山隠(やまこも)れる  大和し麗(うるは)し」と読む。

「まほろば(マホロバ)」の「バ」には「場」であろうと言う説があり、「場」の音読みは中文(中国語/漢音)では「チョウ」と発音し、呉音 では「ジョウ」と発音して現在の日本でも「場(じょう)」は音読み表記に使われ、訓読みでは「ば」と発音されてている。

因みに「バ(場)」は、韓国語・朝鮮語では「場(ジャン・チャン)」と発音され、つまり「バ(場)」は中・韓には関わりがなさそうである。

中・韓に関わらない発音・・・それは即ち弥生期以前の原住縄文人の言語に意味合いが通じる漢文字を充てた可能性が在る。

まほろ(素晴らしい)バ(場所)の「まほろ」は「まほら」とも言い「バ(場)」は「ま(間)」とも言い、「まほろバ」を「まほらバ」とも「まほらマ」とも表示しているが、「まほろ・まほら」の語源の由来が何語だったのかなどが不明である。


断って置くが、日本語の現状を見れば判る通り言語は時代と伴に激しく変化する物であり、縄文言語に近いアイヌ語だけが「永く不変」などと言う事は在り得ない。
従って日本語のアイヌ語起因説の言葉について「類語が現存しないから」と言って「間違い」と決め付けるアイヌ語研究者が存在するが、態度として如何なものだろうか?

歴史には連続性があり、以前の時代を知らなくてはその時代を語れない。

もし日本語とアイヌ語が「まったく違う言葉だ」と主張するなら、結局その方は縄文期から弥生期に移る過程の理解を曖昧のままに遣り過ごして居た事に「気が付いて居ない」と言う、とんでもない話しなのである。

つまり日本語の成立過程もあやふやな人物が、アイヌ語と日本語を線引きするなど大局観を持たない素人同然の話しなのだ。
九州の鬼八伝説を始め日本列島各地に鬼・鵺・土蜘蛛の伝説が散見される事から、日本人が列島の西半分に最初から住んで居て、縄文人(蝦夷族・アイヌ族)が最初から東北・北海道に限定的に住んでいたなどと言う強引な主張は現実的ではない。

そしてこの現代に、「天孫降臨」などと言っても誰も信じないし、それよりも彼等が「船で列島に渡って来た」と言う方が遥かに現実的である。
そして天孫降臨伝説を解釈すると、列島全域に居住していた原住縄文人(蝦夷族・アイヌ族)が、「文明を携えて渡来して来た部族に北に追い遣られた」とする方が遥かに現実的である。

そして驚いた事に、かの研究者は縄文期から弥生期に移る過程を無視し、日本人或いは日本語とアイヌ人或いはアイヌ語をスッパリと切り離して「それは日本語、これはアイヌ語」と断言しているのである。
極め付けは、現在の東北地区にアイヌ族(蝦夷族/エミシ族)の痕跡を本人が認めながら「猿(サル)」の話しに成ると突然「猿(サル)は北海道には存在しない」から、アイヌ語に「サルと言う言葉は無い」のだそうだ。

それでは中文(中国語/漢音)では「エン」と発音する「猿(サル)」の「サルと言う発音」は何処から来たのだろうか?
東北地方の地名に、アギタ(秋田)・ヌシロ(能代)を始めとする多くのアイヌ語起因説があるのは、いったい何なのだろうか?

時たま、「偉い人が言った」とか「国が言った」とかを根拠に事の是非を論じる方が居られるが、実は歴史学に於いては「偉い人の言」や「国の発表」ほど左脳域の「統治の都合」と言う計算が加わった可能性が高く、ある面ではこれほど信じられ無いものは無い。

全ての学問がそうだが、手に入れた資料を基に想像力を発揮すれば定説とは違う新しい歴史が見えて来る事もあり、過去の研究者の定義をそのまま主張するのは発展性が見込めない独善的な行為である。

正直それは「稚拙な論議」と言わざるを得ず、過去の研究者のアンカリングに嵌ってしまえば、新しい発想も新しい発見も見えては来ない。
困った事に、基点を右脳域の感性に置いて始めた思考に左脳域の計算が加わったり、基点を左脳域の計算に置いて始めた思考に右脳域の感性が加わったりと一筋縄では行かないのが人類の思考回路である。

その複雑な思考回路の人類と言う存在を前提とせず、その時々に都合の良い発想を選択して安易に解決しようとする事が、様々な矛盾を成立させているのである。

本来、文献・書物の類は著者の独自な意見の提示であって、つまりその提示は証拠では無く論議の出発点に過ぎないものである。
他人の著作に素直過ぎる事は研究者としては失格で、未だ縄文期から弥生期に掛けての言語リレーの欠落部分も解明されていないのに、僅か数人・数冊の他人の書を根拠に絶対性を持って結論を出す事は品がない。
それでも勝負したいのなら他人の書を根拠にせずに、自書を著わしてから、その内容を持って世に問うべきである。


古事記日本書紀神武東遷記(じんむとうせんき)などは、大和朝廷(ヤマト王権)の西日本統一過程を美化している為に何処まで信じられるか判らないが、渡来各部族や原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)が連合過程を経て大和朝廷(ヤマト王権)が成立した事は想像に難くない。

その過程で、原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長を含む渡来各部族長が、大和朝廷(ヤマト王権)体制に於いて県主(あがたぬし)国造(くにのみやっこ)と言う称号を得て初期の貴族・御門群(みかどぐん)を形成する。

原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長系の県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)と考えられる主な存在に、誓約を持って天宇受売命(あめのうずめのみこと)と夫婦に成ったとされる猿田彦神(さるたひこがみ)の宇治県主(うじあがたのぬし)や越後国造(えちごくにのみやっこ)で後に奥州(東北)蝦夷族の俘囚長を務めた阿部臣(安倍氏)などが有力である。

いずれにしても、恭順した渡来部族長や恭順した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長は臣王、それに従う部族長の身内までは氏姓(ウジカバネ)を授かって支配階級に列し、それ以外の従った原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「良民」、反抗した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「俘囚(ふしゅう)・非人(ひにん)・賤民(せんみん)・奴婢(ぬひ)」などと呼んで隷属させた。
つまりアイヌと呼ばれる原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は、渡来勢力に追い遣られたのであって、弥生期の初期の段階では日本列島の隅々に居住し、けして最初から居住圏が列島の東部分や東北・北海道に限定していた訳ではない。


大和(やまとの)国は即ち大和合(だいわごう)の国で、単一日本民族の成立過程までには、部族的混血と言語的融合が在った。
渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

しかしその楽園は渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)の一部は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され、多くは東北・北海道へと圧し遣られて行く。
俘囚(ふしゅう)として隷属化された一部の蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺されたが、言語は音訓二重発音する大和言葉として残った。

渡来部族が日本列島に遣って来た当初、原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)は言語がまったく違う為に「通訳が必要であった」と言うくらい渡来部族に取っては異民族であった。

そして縄文期から弥生期に掛け、渡来部族と原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の間で共存の為の意志の疎通と言う必要に駆られて、後に日本語と成る奇跡の言語・大和言葉が編み出された。
日本語のルーツを辿れば、翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)に辿り着く。

この音訓の多重発音こそが、縄文蝦夷と渡来部族混血の証で、つまり訓読みの「バ(場)」は、まったく確証が無い話で恐縮だが、もしかしたら「縄文語=アイヌ語起因かも知れない」と思ったのだ。


日本古代史の弱点は、縄文期から弥生期に移る過程を古事記日本書紀で政治的にロスト(欠落)させた事にある。
日本史には、所謂(いわゆる)右脳域の「虚・文化としての歴史」と左脳域の「実・現実の歴史」が混在し、「虚」は精神世界のもので「実」は必ずしも精神世界と合致する物ではない。

そして厄介な事に、右脳域・左脳域と言っても単純に一方で済ませないのが人間の思考作業で、起想時点での脳域と結想時点での脳域は決定的不変ではない。
例えば、理性を司る左脳域の「損得勘定」で始まった捏造の歴史、皇統史を美化する為に捏造された「聖徳太子」の存在も、一度定着すると感性を司る右脳域の「精神世界」に移行して聖徳太子は信仰の対象だから存在の有無は超越している事になる。

日本人は、この弱点と確り向き合わないで来た為に、歴史認識に於いて整理が尽いていないのではないだろうか?
そこで我輩は、理想郷の意味と解釈される「まほろば(マホロバ)の語源由来」を、若干資料不足を承知でアイヌ語起源説を提起したい。


実は、マホロバの「ホロ」に関してはアイヌ語に漢字の「幌」を充てた地名を数多く見かけ、代表的な地名に石狩地方の札幌(サッポロ/サッ・ポロ/乾いた広いところ・サッ・ポロ・ペッ/湿原を流れる大事な川)市が在る。

その他、十勝地方の士幌(シホロ/本当に大事な川)町、留萌地方の羽幌(ハボロ/うばゆりの自生する川)町、網走地方の美幌(ビホロ/水量がある川)町、空知地方の幌加内(ホロカナイ/後戻りする川)町、留萌地方の幌延(ホロノベ/広い原野)町、日高地方の幌満(ホロマン/洞窟から流れ出る)川などが、「幌(ホロ)」を使っている。

アイヌ語に於ける「ホロ」は、どうやら「川のある土地」の意味のようだが、ご承知のように人類は川の畔(ほとり)で生活する事から古語の解釈「素晴らしい場所」或いは「住みやすい場所」と意味合いが矛盾しない。

充て推量になるので批判を覚悟で可能性を挙げれば、アイヌ語の「マ(ma)」には「泳ぐ」と言う意味があり、「マホロバ」 は「泳げる川のある所」の可能性がある。

また、それだけでは情報不足なので、アイヌ語の「ノ(no)」には「最も・全く・本当に(強意)」などの意味に使われている点で、「ノホロバ」 が「最も(本当に)素晴らしい土地」になる事も併記する。

つまり日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が詠んだとされる「まほろば」の歌の内容は、王城の地と定めた飛鳥川、葛城川、大和川などに代表される大和川水系や淀川水系の加茂川(鴨川)の流域 など畿内・大和(やまと)の地を「国のまほろば(素晴らしい場所)」と称えているのである。


畿内・大和(やまと)の地には、飛鳥京(あすかきょう)藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)平城京(へいじょうきょう)長岡京(ながおかきょう)平安京(へいあんきょう)が開かれて、古墳時代の末期(五百九十年代)から始まり江戸(東京)遷都(えどせんと)までの千数百年間に渡って王城の都が在った。

まぁ日本神話に於ける日本武尊(ヤマトタケルノミコト・倭建命)の存在その物が、近年では「古事記に於ける架空な創造上の人物である」とされているのだから、この「麻本呂婆」の歌も尊(ミコト)が詠んだと言う確証は無い。

そして、この「まほろば」の大和国以前の原点を辿ると、古代葛城王朝の都・田京(たきょう/伊豆の国市・大仁田京)を擁する伊豆国・狩野川水系に辿り着く。
その伊豆の地こそが、後ほどご紹介する加茂・葛城ミステリーの「まほろばの地」だったのではないだろうか?

             


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