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practice 1  中毒

 長い文章を書くのが好きだ。

 小学校低学年の頃から、作文の時間が大好きだった。指定された枚数の最後の1マスに、句読点「。」を持ってきて終わることにこだわっていた。

 特に好きだったのは「好きなだけ書いてよし」の作文だった。みんなは嫌そうに鉛筆をいじっていたり、「書き終わった人は裏に絵をかいていい」と言われるのを待っているのに、私は「はじめ」と言われてから「おわり」と言われるまで、手を真っ黒にして書き続けた。変なやつ、だった。

 といって当時の作文に内容はない。物事を時系列に並べたてたり、思いついたことを繰り返し書いているだけだ。先生にドヤ顔で持って行ったら、「みらいさん、もう少し短くね」と言われ、昭和の漫画風に「ガーン!」とショックを受けた。当時はどういうわけか「書けば書くほど良い」と思い込んでいて、頑張る=長文だと信じていた。「どうして?私、頑張ったのに」みたいな、的外れな悲しみを感じていた。

 中学になったらもう少し背伸びした読書などしていたので、格好をつけた中二病チックな文章を書いた。短い文を繋げたり、体言止めなどを多用した。先生は「疾走感がある文章だね」と褒めてくれたが、相変わらず長い。疾走もマラソンでは疲弊する。

 高校ではさらに中二病をこじらせていたから、内容がパンクだった。『車輪の下』の感想が「所詮車輪に踏みつぶされるのが若さというやつだぜ」みたいな書き方だ。全く愚かだった。

 作文が好きな文学少女はもれなく現国の先生に可愛がられる。課題提出が滞ることが無いからだ。かといって、作文コンクールに入賞するような生徒でもないから、先生方は生温く見守ってくれていた気がする。

 長文になりがちなのは論理性に欠けているせいだと気づいたのは、大学に入ってからだ。遅い。小論文や要約は嫌いではなかったが、少々苦労した。しかし相変わらず書くのは好きなので、何万字でも書ける。ちょうどワープロが一般的になった時代だ。表記スピードが格段にアップした。卒論を書くのは、だから、楽しかった。

 おそらく、文章を書くと脳の報酬系が働く体質なのだろう。βエンドルフィンなどの脳内ホルモンが出るにちがいない。

 いわゆる「中毒」だ。

 目下のところ私に必要なのは絞り込む訓練のようだ。捨てる勇気。残す覚悟。見て読んで習い覚える「lesson」の次は、実践・演習だ。

 タイトルは「practice」に決めた。

 

 

 

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