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freestyle 9 一週間

一週間が、また過ぎようとしている。

スタートしたばかりの2022年も、気がつけばすでに三週間。光陰矢のごとし、とはこのことだ。

一週間と言えば、ロシア民謡「一週間」は、不思議な歌だ。

日曜日に 市場いちばへ出かけ
糸とあさを 買ってきた
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ テュリャ テュリャリャ
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ リャ
月曜日に おふろをたいて
火曜日は おふろにはいり
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ テュリャ テュリャリャ
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ リャ
水曜日に ともだちが来て
木曜日は 送っていった
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ テュリャ テュリャリャ
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ リャ
金曜日は 糸まきもせず
土曜日は おしゃべりばかり
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ テュリャ テュリャリャ
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ リャ
ともだちよ これが私の
一週間の 仕事です
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ テュリャ テュリャリャ
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ リャ

初めて聴いたのがいつだったか思い出せないが、男性四人ボーカルグループの「ダークダックス」だったか「ボニージャックス」だったかが、美声で軽快にテュリャテュリャ歌っていた記憶がある。

子供の頃は、これを聞いて何とも言えない気持ちになった。

友達と会うのも「仕事」なのかな?
糸まきもせず、おしゃべりばかりで、いいのかな。
なんだか、怠け者の歌みたい。

子供の、素朴な感想だ。

しかしテュリャテュリャの響きがなんとなく心地よくて、時々なぜか口をついて出る。私は結構この歌のリズムが好きで、心の中でもよくテュリャテュリャ歌っていたように思う。

大人になってからは、こう思った。

まあ、外国の昔の民謡だからね。市場も遠かったのだろうし、徒歩だったのかもしれない。糸と麻は大きな街にしかなくて、売っているその街まで何十キロもあったのかも。時代が時代なら大変な労働だったのだろうし。

お風呂を沸かして、次の日に入るというのは解せないけど、昔は薪を割って薪を乾かして炉にくべて、と手間暇がそのくらいかかったのかもしれない。寒い国だし、きっと時間がかかったんじゃないかな。

友達、というのも、ほんとは恋人なのかも。そしたら泊まってくよね。いやもしかしたら、友達の家が、すごぉーく、遠かったのかもしれない。

しかし、うーむ。金曜日と土曜日はサボりすぎじゃないのか。恋人が帰ってしまって、仕事が手につかないということだろうか。いやいや、ロシアは昔からギリシャ正教だから安息日が土曜日なのかも。

いやぁ、にしても、「テュリャテュリャ」が多いな!

妄想をたくましくしつつ、相変わらずテュリャテュリャ口ずさみながら、謎は謎のままだった。

今回、これを書くのにWikipediaをみたら、歌詞の改変は確かに行われており、「友達」はもともと「恋人」だったようだ。子供が聞く歌にそぐわない、と改変されたらしい。へー。いかにもショーワだ。

恋人、となると解釈がスムーズに広がるようで、色々な見方ができそうだ。たしかに友達よりは、意味がありそうに思える。

ところで、この歌から「テュリャテュリャ」を抜いたら、おそらく絶望的につまらない歌になるはずだ。試しに、ちょっと歌ってみたが、単調で息苦しい。

私はその、「歌詞からテュリャテュリャを抜いた一週間」を実際に体験したことがある。更年期や環境の変化などもあってメンタルの不調に悩んだ時の私の生活はまさに、この「テュリャテュリャ抜きの一週間」と同じだった。

買い物なら買い物しかできない。買い物に行ったら力尽きて、へたり込んでしまう。お風呂もできれば入りたくない。友達から誘われても断ってしまう。やらなければならないルーティンも手につかない。だから一日にひとつくらいしか、やれることがなかった。

この歌詞は、買い物とかお風呂とか、友達に会うとか、心が辛い時にはハードル高い系のものが並んでいるのが絶妙にツボにハマる。

昔はスケジュール帳が予定で埋め尽くされていて、残業したり早出をしたり、どれほど仕事量があっても頑張れていたのに。怠け者だと自分を責めては、悔しくて泣いた。

先日、お風呂を洗いながらテュリャテュリャ歌っている時に、「あ。この歌詞は、一日にひとつのことしかできなかったあの時と似てるな」と、ふと、思った。

そして、今まで気にも止めていなかった「テュリャテュリャ」に、もしかしたら意味があるのではないか、と、思い始めた。

毎日毎日、人は特別なことばかりしているわけではない。他にもいろいろ、言うまでもない(言語化できない)ことをいっぱいしている。

もしかしたら、この「テュリャテュリャ」は、日本語に「カクカクシカジカ」、という表現があるように、

あんまり色々あって面倒だから割愛しますが、トピックにならない雑事は「テュリャテュリャ」で表現させていただきます

という、簡略化の表現ではないのだろうか。

だとすると、テュリャテュリャが実に大きな意味を持ってくる。

急にこの歌が愛しく思われてきた。

メンタルの不調や、病気やけがは、回復に向かってもすぐに元通りに動くことができない。できなくなってしまったことが、元の通りにできるようになるまで、何日も、何か月も、下手をすると何年もかかることがある。

加齢による老化は、衰えたところは諦めるほかないことも多い。

楽器を弾く人、スポーツをする人も、ちょっと練習を休んだり、サボったりすると、たちまちツケが回ってくる。アスリートにとっては、怪我そのものよりも、怪我で休んだことの方が、選手生命の命取りとなったりする。

その、技術や、筋力や、機能や、見えない積み重ねの、数々。

失ったものを数えて、前の自分と比べて、よその人と比べて、人は焦る。

前はあんなにできたのに。
出来たはずのことが、なぜできないんだろう。

これじゃ、だめだ。できるはずなんだから。仕事や予定を詰め込んで、「こんなことをやった」「あんなことをやった」と言わなければ、スケジュールをパンパンにしなければ、と、思い込む。

人には誰にだってそう言う時が来る可能性があって、それは往々にして突然で、うっかり狼狽うろたえてしまうのだと思う。

だから、もしも自分がそうなったら、身近な人がそうなったら、この歌を思い出すといいのかもしれない。

一日になにかひとつでもできたらそれで充分。何もしていないようで、気づかぬうちに言葉にならないテュリャテュリャ的なことはしているものだ。

そう思えばちょっとは気が楽になりそうだ。

サボったって遊んだって、なんだかんだで毎日ちゃんと頑張ってることを思い出させてくれるロシア民謡、「一週間」。少なくとも、この歌の主人公よりは働いてるな、と再確認させてくれる効果もある。笑

若干、中毒性が高いが、日々の鼻歌におススメだ。









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