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メモ帳感覚で気付きを呟いています。偶に厳しい事を呟くかもしれないので、厳しい呟きに対し…

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メモ帳感覚で気付きを呟いています。偶に厳しい事を呟くかもしれないので、厳しい呟きに対しては、「みらはわかってくれない」「私は違うと思う」…と、あくまで自分軸で捉えてくれると嬉しいです。

最近の記事

「お金を使う」となると、多くの人は「スーパー等での買い物」を連想する為に勘違いし易いことですが 物を売る際の「値段」を決めるのは『自分の物差し』でいいです その為、「1個100万」で売る事も可能ですね しかし、それが売れるかどうかはお客様次第になります 故に、寄り添う事も必要です

    • 私も「人助けは良いもの」だと思っていた。 けれど、与えること自体それが良いものかどうかを決めるのは相手自身。勿論、頂くものが良いものかどうかを決めるのも私自身になる。 ならば、「辛くて頑張って与える」のと「夢中になったら与えていた」のとどっちがいいのか? 明らかではないだろうか

      • もし「お金」という概念自体がなくなったとしたら…?

        何も無いゼロの状態か? ある程度知識・知恵を得た状態か? にもよると思うが、今回は後者の「ある程度知識・知恵を得た状態」にフォーカスして考えてみる。 まずは、食料を探すかな? 草は食べられると知っているものは勿論、知らないものなら「危険性がなさそう」なら何でも食べると思う。 お肉は、狩りをする必要があるからね。 陸の獲物なら、モ○ハンに出てきそうな武器を作る工夫をしてみる。 海や川などの水辺の獲物なら、釣竿を作ってみることだろう。 これらを踏まえると、きっと「海」の近く

        • 「許されたい」と思う人へ

          私は「許されたい」と思うことは、消して弱さではないと思います。 それは、『社交的な本能』です。 ただ、確かに人の気持ちは変えられるものでは無いので、許してもらえるかどうかを他人に委ねるのは難しいかもしれません。 けれど、その気持ちを否定する必要はないと思います。 人は弱い生き物です。 故に、一人では生きていけません。 「一人で生きていける」という人も、気づかないところで必ず誰かに助けられています。 だから、「自分は弱い」とわかっているからこそ、「独りになるのが怖い」もの

        「お金を使う」となると、多くの人は「スーパー等での買い物」を連想する為に勘違いし易いことですが 物を売る際の「値段」を決めるのは『自分の物差し』でいいです その為、「1個100万」で売る事も可能ですね しかし、それが売れるかどうかはお客様次第になります 故に、寄り添う事も必要です

        • 私も「人助けは良いもの」だと思っていた。 けれど、与えること自体それが良いものかどうかを決めるのは相手自身。勿論、頂くものが良いものかどうかを決めるのも私自身になる。 ならば、「辛くて頑張って与える」のと「夢中になったら与えていた」のとどっちがいいのか? 明らかではないだろうか

        • もし「お金」という概念自体がなくなったとしたら…?

        • 「許されたい」と思う人へ

          繊細な私が人の目を気にせずに、本当に「自分らしく」生きる為に必要なことと向き合う話。

          ※少し刺激的な内容になります。 加害者と被害者は表裏一体。 同じものである。 という説は、聞いたことがある人が多いのではありませんか? 実は、これ本当に本当かもしれません。 さて、ここで少し私事なお話をさせていただきます。 私は小学生の頃に、当時すごく仲良かった友達に裏切られる形で、いじめられた。 その件から、私の人生は一変して悪い方向に向かった。 学生時代はいつもいじめられ、大人になってからもモラハラやパワハラにあった。 家族関係に関しては、その件からずっと悪くなっ

          繊細な私が人の目を気にせずに、本当に「自分らしく」生きる為に必要なことと向き合う話。

          「優しさ」と「弱さ」は紙一重?について考えてみた。

          「優しさ」と「弱さ」 これらを考える上で、まず大切になるのは『強さ』について知ることだと思う 『強さ』 それは、人によって答えが異なると思う あえて、私の答えを言うならば 強さとは『自分を持っていること』なのではないだろうか? この『自分』の定義も中々難しい よく「好きなことに夢中になるとき」とか「自分の意見を持っているとき」とか『自分らしさ』とか言うけれど そういう時に限って 案外「これが自分なんだ」とは意識しないもの つまり、自分では自分の確認の仕様がない た

          「優しさ」と「弱さ」は紙一重?について考えてみた。

          《自論》「人の為」「優しさ」という言葉が人を弱くしているのではないか?という話。

          「人の為に」て、はっきり言って雑魚だと思うよ? 「人の為」とか「優しさ」とか 「平均化社会」の為に作られた美徳だと思うから 「人の為」て本当に人の為? 「優しさ」は何のために行うの? 見せかけを良くして、美しいベールで包んだだけで 中身はただの卑屈ではないだろうか? そう思ってしまう 「雑魚」というのは、私が人をジャッチした言葉ではない 何故なら 雑魚にしているのは、他人ではなく 「自分自身」だから 自分自身を見くびり 人からの評価を恐れ 自分の人生を生きることを

          《自論》「人の為」「優しさ」という言葉が人を弱くしているのではないか?という話。

          「他人を否定しなくて良くなる方法」について、考えてみました。

          「どうしたら、他人を否定しなくてよくなるかな?」 と考えてみたのですけど 結論 自分を理解することができれば解決しそうです 自分を理解しようとしてくと、理解した自分って人に否定されたくないじゃないですか? すると、人のことも否定できなくなるのです ただ「嫌い」があるだけで 「嫌い」は存在否定ではなくて、「私は選ばない(しない)」ことなんですよ 存在否定というのは 「●ね」 とかは勿論 「~はおかしい」 とか 「~はダメ」 とか… 「自分の感想を用いて人や物事そのもの

          「他人を否定しなくて良くなる方法」について、考えてみました。

          無視はする方が悪いのか?される方が悪いのか?

          私個人的な結論としては、『お互い様』だと思います。 無視って、いじめによる集団的なものを除いて、原因はお互いにあるものだと思うのですよね。 する側の原因は、「言いたいことが言えない」とか「言語化できない」とかだと思いますし。 される側の原因は、「抑圧的で言いたいことを言い難い雰囲気をしている」とか「人の話を聞けない」とかあると思います。 この様に、原因…というか課題がお互いにある様な場合もある物事には、どちらが悪いか?なんて決められないと思うのですよね。 あとは、「

          無視はする方が悪いのか?される方が悪いのか?

          《自論》人生は選ぶべきか?流れに身を委ねるべきか?私なりに考えてみた。

          私の結論は、『時と場合による』かなと思います。 理由は『選べるとき』も『選べないとき』もあるからです。 『選べるとき』は『選ぶ材料がある(選択肢が明確である)』時です。 逆に言えば、『選べないとき』は選ぶ対象が「???」となっている様に『選ぶ材料がない(選択肢が明確でないとき)』また『分からないとき』です。 そんな中で、選べるときは選ぶといいというか、『選ばなければなりません』し 選べないときは『流れに身を任せる』べきというか"しか"ありません。 なので、私は時と場合に

          《自論》人生は選ぶべきか?流れに身を委ねるべきか?私なりに考えてみた。

          皆一人一人、「その時のベストで生きてるんだ」と思ったら、いい意味で同情しなくなったんだ。 私も「その時のベストで生きてるんだな」と思えたから。 今この時の自分を愛してもいいのかもしれない。 そう、思えた。

          皆一人一人、「その時のベストで生きてるんだ」と思ったら、いい意味で同情しなくなったんだ。 私も「その時のベストで生きてるんだな」と思えたから。 今この時の自分を愛してもいいのかもしれない。 そう、思えた。

          そもそも、寿命がある時点で「全部を大切にする」なんて間違えだよね?無理だと思う。

          そもそも、寿命がある時点で「全部を大切にする」なんて間違えだよね?無理だと思う。

          全員が全員に好かれることはできない けれど、共感し合える「仲間」と共に生きることはできる その為にも、私は私を大切にしたい

          全員が全員に好かれることはできない けれど、共感し合える「仲間」と共に生きることはできる その為にも、私は私を大切にしたい

          本当の救いとは?自分を大切にする大切さとは?

          誰も助けてくれない。 仲間なんて要らない。 味方なんて必要ない。 私はこの世界が嫌いだ。 私を"可哀想な人"にした、この世界が…自分が嫌いだ。 よく、アニメでは敵だけど浄化されて救われるシーンがある。 それは、「辛い思いをして(または洗脳されて)闇堕ちしてしまったキャラ」であることが多い。 私は毎回それを見ては感動して「よかったね」と思っていた。 なんだか「救われない自分の代わりに、あのキャラが救われたんだ」と投影していた部分も多い。 けれど、やっと気付いた。 それは、

          本当の救いとは?自分を大切にする大切さとは?

          「失敗してもいい」話について語ってみた。

          子供の頃は親とか、仕事なら上の人が下の人を叱るのって、失敗した子供・下の人の間違えを強調したい訳ではないみたいなのですよね。 それは、ただの親・上の人の『承認欲求』らしいのです。 恐らく、「大変な気持ちをわかってほしい」「強い責任感を抱えていることをわかってほしい」といったことではないでしょうか? ここだけ聞くと「承認欲求面倒臭い」と考えてしまうかもしれませんが、逆に考えると我々が気にしていた『自分の失敗を強調されたことによる、存在否定感は感じなくていい』と取れると思います。

          「失敗してもいい」話について語ってみた。

          何故、人は他人に「譲る」のか?優しさに潜む闇。

          ※これは個人の独断と偏見です。 結論、「生き残る為」ではないかなと私は考えています。 草食動物(種類にもよる)を考えるとわかりやすい話ですが、よく群れますよね? すると、『自分が食べられるリスク』を減らせるのですよ。 だから、人に物を譲って他人を生かすことで、自分が取って食われないようにしているのではないかな? なので、人は社会的な動物なのかなと考えたりします。 現に、自分自身の実力で生き残ることに自信がある。だからこそ、実力不足で生き残れなくとも納得できる。 そんな人

          何故、人は他人に「譲る」のか?優しさに潜む闇。