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青い車で海へ行こう

離陸後の飛行機というのは、こんなにも都心の真上を飛ぶものだっただろうか。皇居からスカイツリーにかけてのティピカルな「東京」が眼下に広がって、見知った街のはずなのに改めて細密画のような建造物の密集に軽く眩暈がする。羽田からのこの路線にはもう何度も乗っているけれど、これまではもう1本早い早朝便を選んでいたから、座席に着くなり眠りに吸い込まれていて外を眺める余裕などないことが多かった。

男に会いに行くために飛行機に乗るような、そんな気持ち悪い女に自分がなるとは思っていなかった。あのひとは今、わたしの父方の祖母宅のある町の隣県で暮らしている。「帰省ついでに、もしご都合がつきそうならちらっと顔を見に寄らせてください」と、日程が近すぎず遠すぎないタイミングを見計らって、今のわたしにできる最大のさりげなさを纏わせたメッセージを投げたら、「この日なら一日出歩けるよ」と日程が提示され、とんとん拍子に予定が決まってしまった。前もって予定を決めて会うのは、おそらく出会った日以来だ。「こっちは桜が散りはじめたところだよ」とソメイヨシノの巨木の写真がメッセージに添付されていて、あのひとが季節を共有してくれるところが好きだ、と思う。

我ながら、どうしてここまで入れ込んでいるのか分からない。会えばきっとまた感情を持っていかれて苦しくなるのに、どうして会おうとしているのだろう。2か月前のたかが一夜にあれだけ揺さぶられて、バランスを崩した情緒の回復に随分苦労したくせに、わたしは結局懲りていない。あのひとのことを思うと強くなれる、なんて歌の中にしか存在しなくて、思えば思うほどわたしは弱くなるばかりだ。ただわたしは、苦しくても傷ついてもいいからあのひとに会いたいと叫ぶ自分の心に、どうしても抗えなかった。「心の声に従って生きる人が好きだ」といつかあのひとは言ってくれたから、たぶん負けてもいいのだろう。

ミシュランガイドで言うと一つ星の「近くに訪れたら行く価値のある優れた料理」に当たるかなと考えかけて、今回は帰省のほうが口実だなと思いなおす。結局わたしはあのひとを、「そのために旅行する価値のある卓越した料理」と定義される三つ星に認定してしまっているのだろう。星の数ほど人はいて、その中で三つ星店を見出せたこと自体が奇跡だ。

空港でレンタカーの受付を待っている間に、機上から撮った雲ひとつない富士山の写真を添えて、明日はよろしくお願いします、と送ったら、すぐに「楽しみにしてるよ!」と返信があった。平生あまり見かけないあのひとの語尾のエクスクラメーションに、馬鹿正直に胸が跳ねる。飛んで火に入る夏の虫を地で行くスタイルを、我ながら可愛いなと思う。

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「顔が見たい」と連絡をして、なにをしようともなにをしようかともお互い言わないままに待ち合わせの日時を決めた、それがもうそういうことでも別にいいし、あのひとはそういうことをしないひとだろうなとも思う。待ち合わせ場所を左に曲がって15分ほど走れば窓から海が見えるホテルがあるのを、わたしは知っているけれど。「10時以降なら何時でも大丈夫」に、「じゃあ10時に」と返されるただそれだけのやりとりが心を温めて、べつにそれがただの欲でしかなかったとしても、わたしはやっぱり嬉しいのだろう。久しぶりに丁寧にケアした肌は、あのひとに抱かれて目覚めた雨の朝によく似た湿度を孕んでいた。

セックスは長い間わたしにとって、己を支えてくれるものでありつづけてきた。たとえ「肉体と精神をどぶに捨てるような」と社会学者が形容するタイプの行為であっても、それでもそれはわたしにとって明日への活力をくれるものだったから、どんなに忙しくても疲れていても眠くても、わたしはセックスのために時間を割いてきた。それだけがわたしに息をさせてくれた夜があった。「尊厳が守られないセックス」を、わたしはそう悪いものだとは思わない。

けれど、2か月前にあのひとと過ごした一夜の記憶は、どうしようもなくわたしを弱くした。わたしの総体をこのうえなく丁寧に愛でられたのに、いや、だからこそそれは、わたしをずたずたになるまで振り回す暴風雨のような残酷さを孕んでいた。明日への活力をくれるものだからこそ選好し愛でつづけてきたのだ。だから、そうでないなら必要でなくなってしまう。なにかを言語化して救われたくて、書きたくて、書こうと思ったけれど書けなかった。わたしの感情は、書けば固定されてしまう。わたしはそれが、まだ嫌だ。わたしはまだ、あのひとの肌を必要としていたい。

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晴れ女のわたしがこの日をどれほど楽しみにしていたかが明け透けに分かるような、眩しいばかりの快晴だった。青い車体が待ち合わせ場所に滑り込んできて、目が合った瞬間ちゃんといちばんいい笑顔で笑えたから、昔の男の教えに感謝する。「行きたいところはあるか」と目を細めるあのひとに、「先生とならどこへでも」と笑うわたしはきっと狡いのだろう。

「コーヒー、飲んでいいからな」と言われていたけれど手を伸ばさないままでいたらあのひとは、自分がひと口飲んだあと、ついでのようにタンブラーの蓋を開けたままわたしに手渡して寄越す。世話を焼くことが呼吸のようになっているあのひとの庇護欲に溺れていたい。コーヒーに息を吹きかけて冷ます猫舌のわたしを、「子供みたいだな」とあのひとがわらうことすらうれしくて、ああ、扱いやすい女だろうな、と思う。昔もこうして、あのひとが淹れてくれたコーヒーをひと口ずつ飲んだ。あのひとがくれた記憶が、あのひとのつくりだす空気と折り重なって、わたしを柔らかく浸していく。

新緑が光る山間の道は、ドライブしているだけで心地良い。あのひとはやっぱりわたしの名前を呼ぶとき「さん」付けにもう戻らず、それがうれしくて、もっと名前を呼んで、と希う。もっと、もっと。その距離はもういらない。尊重されていることは知っている。だから、いま隣に置いているのはわたしなのだともっと教えてほしい。いまあのひとが見ているのはわたしなのだともっと教えてほしい。いまだけでいいからぜんぶ見ていてほしい。その視界を独占させてほしい。あのひとの視線の先を辿るのもちゃんと好きなのだけれど。

海沿いの渓谷に架かる鉄橋にわたしが目を留めたら、「寄っていくか」とあのひとがやさしいので、わたしはどんどん幼くなる。鉄橋の下に車を停めて、展望台までのエレベーターに向かう。初夏のような陽射しに思わず髪を束ねた。「人工物は苦手か」とあのひとが笑ったけれど、曇天に押しつぶされたような東京の街並みとは違って、青空に向かって伸びる橋脚が描く線はそれなりに美しいような気がした。

自転車止めをすり抜けるとき肩が触れたのが、偶然だったかどうかは分からない。あのひとはやっぱり薬指が空で、その微妙な気遣いにわたしは触れられないでいる。別に気にしないし、むしろそれが性癖ですらあった時期もあったのになと思わないでもないのだけれど、ここはあのひとのテリトリーだから、わたしは息を潜める。ぎりぎり親子にもカップルにも見えない分かりやすく不穏な年齢差だな、と黙ってあのひとの背中を追った。

隙がないから触れられない、というわけではなくて、あのひとの隙くらいこじ開けようと思えばいつでも容易くこじ開けられるのだ。たとえばここで触れてしまえばいい。あのひとの目に映るわたしをわたしはまだ掴みきれていないけれど、それでもそれなりに好かれているようだから、わたしが強請ればあのひとはそれくらいの我儘は笑って受け止めてくれてしまうのだ。わたしが手を伸ばせば、あのひとは決してそれを拒絶しない。それはわたしのあのひとへの信頼であり、またわたしがそうするとしたらすべてのリスクを計算した上での必然性を孕んでのことだろうというあのひとのわたしへの信頼の上に成り立つものでもあるのだろう。

わたしが肩の力を抜いて安心して甘えられるのは、ベッドの上でのわたしをどこまでも受け止めてくれたひとだけだ。1対1の人間関係をやるよりも、男と女をやるほうが楽だった、ずっと。全人的に向き合って対話を重ねるより、抱いて抱かれてしまうほうが遥かに話が早いのは、男と女の業のようなものなのだろう。あのひとが狂うのを見たいという欲望と、あのひとには決して狂わないでほしいという信頼の間で、心がぐにゃりと捻じれる。


エレベーターは床以外のほとんどがスケルトンになっていて、小さな漁港越しに海が見えた。景色に吸い寄せられるわたしと裏腹にあのひとは、「高いところは怖いんだよな」とぼやいていて、申し訳ないことをしたと謝るわたしにそれでもいつもの柔らかな笑顔を向けた。鉄橋の上で慎重に通路の中央を歩くあのひとはどこか可愛くて、渡り切って足元に大地があることを把握した途端に表情が緩んで欄干に寄っていくのに笑ってしまった。あのひとと海を眺めている時間が好きだ。あのひとにとってこれが、いつかの誰かとの焼き直しでも構わないと思った。

「絵は好きだったか」と問うあのひとに肯定を返したら、車は障壁画の美しい古刹に向かった。案内を聞きながら部屋部屋を見て回ったあとに歩いた巨木の多い境内の空気は澄んでいて、心の淀みが流れ出すような気がする。陽の光の下でふたりで長く時間を過ごすのは初めてだけれど、あのひとの隣がわたしの居場所だと自然に思える安心感は、いったいどこから来るのだろう。昼食の蕎麦を手繰っているときも、お勧めだという和菓子屋に立ち寄ったときも、町中をそぞろ歩いているときも、あのひとは十全にわたしの世話を焼きつづける。

やっぱり海が見たくなったわたしに、「じゃあ俺の好きな場所を見てもらおうか」とあのひとは笑って車を走らせる。話題はお互いの近況や好きなものの話から次第に内面的なものに移っていき、あのひとに語りつづけるわたしはどこまでも無防備で、ああ、あのひとに話したかったし聞いてほしかったのだな、と改めて自覚する。言葉を紡げば、なにひとつ笑わずはぐらかさずに、すべてを受け取って解釈して応えてくれるひとだから、わたしはわたしの感情を素直に言葉にできる。

青空の下、春の海は凪いで澄んでいて、やっぱり海が好きだなと思った。わたしの好きなものに対する偏執的な拘りが、あのひとにとって興味と好意の対象なのを知っている。「きみはそれを好きでいい」を超えて、「それを好きなきみがいい」をくれるあのひとに、いつも支えられている。あのひとがわたしのなにかを信じてくれているというただそれだけで、胸を張らねば、と思える。あのひとと会うといつも、ちゃんと自分でいよう、と思えるし、あのひとはいつも、わたしがいま何をいちばんたいせつにするべきかを思い出させてくれる。

過去に唯一心底信じることのできた愛は故愛犬の愛だ、というわたし一流の与太話をしていたら、「澪ちゃんは猫みたいなひとだと思っていたけれど」とあのひとが笑うので、「ほんとは犬なんですよ」と膨れてみせる。猫科の生き物だと思われがちなのは分かっているし、意図的にそう擬態してしまうことも多いのだけれど、わたしの愛情表現は本質的に10数年を共に生きた愛犬のそれの模倣に過ぎない。愛されたようにしか愛せないわたしだけれど、せめてその愛しかたを知っていてよかった、と思う。ところ構わず揺らがず怯まず常に最大風速で殴ってくるのが犬の愛だから、「わたしの愛は重いんです」というのは案外に真率な自己開示だった。この台詞を吐く横顔が猫に見えるのは、自覚している。

そういえばあのひとと最初に会ったのは、愛犬が逝ってしまってからちょうど2年が経った日だった。愛犬がくれた愛と同じくらい、わたしはあのひとがくれる愛を好きだ。ただひたすらに甘くやさしく注ぎつづけられるだけの、付け込まれている感じもなにかを搾取される感じもないそれを、罠だと疑ったこともあったけれど、結局与えられるままに受け入れる快感にわたしは負けてしまった。「愛と名のつくすべてをよこせ」という苛烈な句が好きだけれど、あのひとはわたしに触れるとき、愛と名のつくすべてをくれている気がする。わたしの苛烈さや飢えや渇きすらも柔らかく包み込んで。


高いところが苦手なのは知らなかった、苦手なものなんてなさそうなひとだから、と笑ったら、逆に「澪ちゃんの苦手なものは?」と問いかけられて喉が詰まった。そんなにたくさんのものをたいせつにはできないから、苦手なものはきっと多いほうだ。野菜、満員電車、英語、と無難なものをつらつらと並べて、ふと「育ちのいい人」という剥き出しのコンプレックスが口から零れ落ちてしまって自分で驚いた。出会ったころのわたしは、ノブレス・オブリージュということばを真顔で口にするような人種の多い会社で働いていて、彼らの悪意のない無神経さや鈍感さに随分精神をささくれ立たせていた。そのことばを真顔で発する人種との共通言語をわたしは残念ながら持たなかったし、おそらくついぞ持ち得ないだろうと思う。

「育ちが良く生まれたかったか」とあのひとが尋ねて、「そうは思わないけれど、今のわたしの能力に育ちの良さがプラスされていたら、随分人生がイージーだったでしょうね」と笑ってみせた。育ちの良さはわたしにとって確定的に手に入らなかったものなので、「羨ましい」という感情を持つことすら既に諦めている。わかってほしい相手に対してコンプレックスをざらざらと露悪的に晒してしまうことがあるけれど、あのひとへはただ、わたしの痛みのわたしなりの解釈を話しただけだったと思う。

あのひとが仕事の話をしてくれるのを聞いている時間は贅沢で、もう死んでもいいな、とわりと本気で思う。あのひとがなにをしたくてなにで満たされているのかを聞けるのはしあわせなことだ。わたしは結局ひとの心の裡の情熱にあたためられているのだろう。承認欲求だけで仕事をしようとするのは難しい、とあのひとが言うので、「先生は承認欲求以下の欲求をすべて満たし終えて、純粋に自己実現欲求だけで生きているひとだから」と返したら、「なるほど、そうかもなあ」とあのひとは笑っていた。あのひとは勁いから、外部からの影響を恐れていないし、外部への見せ方も考えていない。どっしりした芯があるくせに妙に輪郭の淡いひとだなあと思っていた理由はそのあたりにあるのだろう。その輪郭の淡さがわたしを無防備にさせる。わたしにとってあのひとは、感情の出口をくれるひとだ。

***

朝待ち合わせた場所にはもう人影はなくて、穏やかな黄昏時の光だけがゆらゆらと空間を満たしていた。車が停まって向き直ったら、不意に視線が絡まった。手を伸ばしたのはわたしで、引き寄せたのはあのひとだった。触れられた瞬間、ああ、ずっとそうされたかった、という感情が堰を切って身体を突き抜ける。あのひとはわたしの「好き」を肯定しつづけるけれど、ならばあのひとに向くこの感情も息をしていていいのだろうか。その衝動ごと抱きしめられて、大丈夫だよ、ちゃんと好きだよ、と言い聞かせるようなキスが降り、わたしは安心して、あのひとの柔らかな輪郭に身体を溶かしていく。

鎮火してもらうつもりでくちづけを求めたけれど、けれど、全焼

木下龍也


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