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8. 受け取る、ということ。

今日はカフェにでも行き、頭の中を整理しようと思っていた。

とにかく頭の中に情報がいっぱいあって(それはいつものことではあるけれど)、若干混乱気味だったからだ。


でも、朝から子供たちが様々なものを散らかしてくれたこともあって、まずは洗濯と掃除、というところから一日がスタートした。


その流れでカーテンを二部屋分洗い、整理しておいた不要な食器を梱包して、ボランティア団体宛に宅急便で送付。

どんどん片付いてすっきりとしてくる部屋に感じる気持ちよさの反面、なぜか心の奥の方が モワン としているのを感じる。


他のことをやることに、逃げてやしないかい?

本当に今やることから、目を逸らしていないかい?


そんな声が聞こえてくる。

そうかもしれないなぁ…などと思いながらいると、子供たちが帰宅。


家に一人でいる時間は、集中もできるし、怠慢にもなれる。

自分次第だ。

そんなことは家にいる時間に限らずだ、生きているこの時間すべて。


目を向けた方がいい、とわかっているから、モワンと感じたりもするんだろう。


そう、ここ最近私が受け取っているメッセージがこそが、

「受け取る」

だからだ。


十分に受け取れていない、とわかっているからこその、このメッセージの深さ。


私はここ数年、AFPを通じて「受け取る」ということは強く意識してきた。

つもりだった。


ジャッジなく、「受け取る」。

ありのままを、「受け取る」。


きっと、以前よりはずっと受け取れるようになってきているとは思う。

でも、十分ではない。その自覚がある。


そして、何をしていても目の前に差し出されるメッセージが、「受け取れていない」なのだ。


受け取る、の反意語はなんだろう。

拒否する、受け取らない、スルーする、無視する、逃げる、とかとか。


そして、

「与える」


そう、十分に受け取れていない自分を自覚して、何が足りていないかを問うた時に出てきた答えが、

十分に与えていない

だった。

出し惜しみしている状態ともいえる。


それがわかって、プチパニックになった。

もしかして私は、「受け取る」ということを強く意識しすぎるあまり、「与える」ことを”いけないもの”として扱っていたのかもしれない、と。

”与えてはいけない”

という表現は少し過剰かもしれないが、でもそういう解釈が自分の中にあったことは間違いない。

私が与えてしまったら、相手の力を奪ってしまう、という解釈もあった。


与えたら相手が図に乗る、相手が頭に乗ったら支配されてしまう、という思い込みかもしれない。

支配される恐怖と嫌悪。


支配されるくらいならいっそ、死んでしまいたい。

自分の意志で生きられないのなら、生きている意味がない。


深いところに、そんな思いが横たわっているのも感じる。


受け取ることと与えることは、循環だ。

どちらが先も後もない、良いも悪いもない。

陰と陽、両極のエネルギーだ。

だからこそ、循環する。

巡って巡って与えあい、受け取り合い、豊かさを拡大していくのだ。


だから、その一方を出し惜しみすると、とたんに止まる。

巡らなくなる。


きっと今の私は、そんな状態なのだと思う。

出し惜しみなく、自分の才や能力を使うこと。

全エネルギーをオープンにして生きること。


そうだ、確かにそうなのだ。

完全に出し惜しみをして、どうしたらわからない”風”にしてきた。

その方が自分にとって都合がよかったから、だろう。


こういう時は完全に無自覚だ。

自分ではその罠にはまっているという自覚がないどころか、それが自然体だとさえ思いこんでいるからやっかいだ。


この無自覚の罠に気付くタイミングだったからこそ、何度も何度も届いたのだろう、あの「受け取れていない」というメッセージが。


このからくりに気付いたら、あとは自分はどうしたいのかを改めてクリアにして決意し、あとは淡々とそのための自分との約束に従って、すべてのことを選んでいくだけだ。

小さな小さな選択と行動の積み重ねだけだ。


そして、ここまで書いてきて、内側にふつふつとした熱と懐かしさがこみあげてくるのを感じている。

懐かしさ、というのは、そう、以前にも体験しているからだ。

壮大なブレイクスルーを。


合点がいった。

言葉にして自分の外側に出すということのパワーは計り知れない。


地に足をつけていこう。

I am that I am.


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