もう恋をしないなんてもったいない

昔、「もう恋なんてしない」って曲があった。
10年間付き合った元彼が大好きだった槇原敬之のミリオン大ヒット曲だ。

あの頃はまだ若くて、私自身の「もう恋なんてしない」というフレーズ自体の受け取り方が非常に軽くて、失恋の重さなんて微塵も分かっていなかった。

その槇原敬之好きの元彼と散々揉めた挙句に喧嘩別れをした。10年という決して短くない付き合いがあれど、彼に対しての愛情は時間の経ったコーヒーよりも冷めたので、やっぱり「もう恋なんてしない」なんて思わなかった。

29才の時、世間で良くある「30才までには結婚したい騒動」が月並みに起きたが、結局ダメだった。元彼はずっと結婚に積極的ではなかったので、全てが成り行きのまま10年も引っ張って、これまた月並みな「長すぎた春」となったのだ。私自身も最初は結婚に対する熱量が高かったが、ここまで引っ張られると不信感と諦めが限界値になって、あとは前記した通りだ。

それでも別れた時はまだギリギリ若い部類に入っていた。だから、また近いうちに違う男性と恋愛が出来るだろうと楽観的に思っていた。

その私の楽観さを恋愛の神が嘲笑うように、次の彼氏が出来たのはそれから15年後だった。

元彼2人のお陰で19才から33才まで彼氏がいたという恋愛期間が引き続いたので、自分が超絶モテない女という事実をすっかり忘れていた。

それからの15年間は地獄だった。

誰かを好きになっては振られるのを散々繰り返した。真っ正直に時系列と年齢を書く必要もないのかもしれないが、33才から48才までは振られ続けてもう心は灰にまみれていた(勝手に燃え上って燃え尽きた)

15年間っていったら、私が振られた年に生まれた乳飲み子が中学3年生になっている。いや、本当に冷静に考えるほど背筋が凍る。

失恋はしんどいからという理由で「もう恋愛なんてしない」なんて甘ったるい事を思っていられたのは、アラフォーまでだった。女性は男性と違って子供を授かる事が出来るリミットがある。色んな状況が恋愛に結婚に不利となり、どんどんハードルが上がっていく。

そもそも「もう恋愛なんてしない」なんて頭で考えたところで、心惹かれる人に出会ってしまえば、自分が色褪せたアラフォー過ぎたオバサンと自覚していても、それと関係なく人を好きになってしまう。恋という厄介な代物は「するもの」ではなく本人の意思とは関係なく「落ちるもの」なのだ。こう書くとほんのりロマンチックだが、成就しないとこれほど残酷なものはない。

そんな地獄の40代を過ごしていて、48才の時、突然に15年振り3回目の彼氏が出来た(甲子園かよ)

その彼氏とは遠距離恋愛で月一で会っていたが、その最中の2020年にコロナ感染が拡大。コロナのせいだけでは決してないが、すれ違いにより再び喧嘩別れ。結婚を前提にと向こうから威勢の良い事を言われていたのに、僅か8か月の付き合いだった。

女性が48才の時に結婚を前提と言われた時の葛藤を彼は本当に分かっていたのだろうか。どれだけ嬉しくて、しかしこの年で結婚すれば子供は難しいという厳しい現実。しかし、あっさりと別れた経緯を冷静に考えられば、「結婚を前提」という甘い飴のような約束は、彼にとってはそこまで本気ではなかったのだろう。

その彼と別れた後、半ばやけくそのようにチャットアプリ(本格的な婚活アプリではないが、実質出会い系アプリ)に手を出した。元彼の真意はともあれ、この年でも結婚を前提に付き合う可能性が作れるという事が証明されたから。

それからは、そのアプリ絡みで傷つく出来事が多々起こった。もちろん、そういう出逢いで幸せになれる人もいると思うので一概には言えないが、大体が下手な鉄砲数うちゃ当たる恋愛を適当に望んでいる人ばかりだった。

詳しい事は書けないが、それこそ傷ついて疲れて「もう恋なんてしない」としみじみと思ってしまった。「なんて言わないよ絶対」という強がりすら言う元気がなくなっていた。

恋愛は、赤の他人同士が特別に惹かれ合うという運命と、その恋愛が成就して結ばれて一生共に過ごすという奇跡で成り立っている。世の中はそんな綺麗な恋愛ばかりではないが、血も繋がっていない赤の他人が特別に惹かれ合う恋愛という人間ならではの浪漫溢れるシステムは素晴らしいものだと思うし、今風に言えば尊い。

年齢的にもハードルが富士山よりも高くなったので、今では開き直って寂しくも自由なおひとり様人生を満喫しているが、あれだけ長年酷い目に遭ったのに、「もう恋をしないなんてもったいない」と心の片隅では懲りずに思い続けている。

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