『寒気氾濫』を読んで

神でさえ弛んでおればぶよぶよのつぶしてみたき満月のぼる /渡辺松男『寒気氾濫』「橋として」
キャベツのなかはどこへ行きてもキャベツにて人生のようにくらくらとする /渡辺松男『寒気氾濫』「橋として」
土という滅びる巨人ほろびつつ樹根まるごと抱きて眠る /渡辺松男『寒気氾濫』「橋として」

 大学歌会のあとで短歌に詳しい先輩から、最近気になる歌集として、現代短歌クラシックス『寒気氾濫』(渡辺松男)を教えていただいた。その日がちょうど発売日であったことも、なんとなく嬉しい巡り合わせだった。

 「橋として」という連作を何度も読み返している。上に引いたものは全てその連作中の作品である。

 2首目のキャベツ歌は帯にも引かれているが、視覚的にも内容的にも印象深いものだと思う。キャベツはその詰まり具合が結構怖いもので、「人生のように」というところには強く共感できる。1首目も2首目もよく考えるとやや気味悪い場面を切り取っていて、あんまり見たくない景、概念、人の理性などを短歌という形式を通して見せてくれているという、読むまでが長いホラー小説みたいな感覚を受ける。語彙についても「ぶよぶよ」「くらくら」など圧が強いものが仕組まれてある。

 3首目は「土」「巨人」「樹根」それぞれの規模感が等しいこともあって、読んでいてしっくりくる短歌。したがって視点とか感覚を変えながら読む必要がなくて、一瞬を切り取った詠まれ方が心地よい。「土」が滅びるならば「樹根」もそのうちに滅びるのが自然の現象ではあるのだけど、今滅びていっている者がいつか滅びる者を抱いて眠るというのは、人間らしい自然を、自然らしい人間を思わせる。枠組み、限界性、成り立ちなど、何らかの範囲に収まっている【わたしたち】の話のような気がしてならない。

 余談でしかないが、その昔、ゴールデンレトリバーのたろう(祖母の亡き犬)はキャベツをうれしそうに食べていた。もっとも、わたしは当時キャベツもレタスも白菜もその違いがよくわからなかったが、犬のたろうが食べているときはその葉物がキャベツだと認識できていた。そういうわけで、たろうにはキャベツのイメージが強く残っている。たろうは来客者としてのわたしにすごく懐いてくれていたのだが、自分より大きな犬が若干こわかったのであまり関われなかった。しかし、感情が豊かな犬で、とても愛らしかった。(一方、二代目ゴールデンレトリバーのたろうはとてもクールで、キャベツを食べているかもよくわからない。)一代目たろうはキャベツについて、今のわたしよりも詳しい見方をしていたかもしれない。なんとも懐かしい思い出である。

歌集『展開』豊冨瑞歩 発売中 234首収録 https://c2at2.booth.pm/items/3905111