3日目 孤独の坩堝


研究者を目指していたこともあり、
孤独というものの恐ろしさをよく考える。

今日も隣で美しい旋律のいびきをかくパートナーを見ながら、「助かった」と思う。

しかしどんな状況でも孤独は発生する。
なぜなら孤独とは「1人であること」ではないからだ。
私は、孤独とは、「精神的に孤立無縁な状態」を表すと考えている。
だから例えパートナーがいても、仕事をしていても、学業に専念していても、孤独は発生しうる。
以下より、孤独という言葉を私の提唱する上記の定義で捉えていただきたい。

感情を言葉にできない、現状や誰かに欺瞞を抱く、無理をする、何かに挑戦する。

大体こういう場合、人は自らを孤独に追いやってしまう傾向がある気がする。
そして1人ではその状態から抜け出せないため、
同じ苦しみを抱える物同士のコミュニティを探したりする。

そのコミュニティが福祉的なものだったり、
孤独から脱出するために本気で取り組んでいるものであればいいが、
世の中そんなに甘くないのが現状である。

多くの場合「大丈夫だよ」「1人じゃないよ」といった甘い言葉に吸い寄せられ、傷の舐め合いで止まってしまうことが多い。
孤独からの本質的な脱却からはできていないから、結局コミュニティに依存してしまうのだ。
そうしてそのコミュニティにまた新しい孤独な人を連れ込む。

孤独だとそういう坩堝に陥りやすい。
だから怖い。

孤独じゃなくなる方法なんてこの世にはないのだ。
登山のように乗り越えるしかないのだ。
例えば研究者になりたいなら、たった一人でどんなに辛くても本を読み論文を書き続けるしかないのだ。
まぁ、私にその覚悟がなかったから研究の夢は途絶えたのだが。

いつ何時どんな状態であれ、
誰にだって孤独は発生しうる。
そのときに孤独に正しく向き合い、
乗り越える覚悟はあるか、
いつも私は考えている。

そうして隣でパートナーのいびきを聞きながら、
「お互い『の』孤独を乗り越える覚悟を持とうね」と、
密かな誓いを立てるのだ。

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