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060.ほとんどの人は自由を勘違いしている


吉本ばななさんがカルロス・カスタネダに大きく深く影響を受けているという事実と同じくらい、わたしは松村潔先生にものすごく大きく深く影響を受けていると思う。
 
それほどたくさん実際にお会いしたことはないのだけれど(2回、和の大学にご登壇くださいました。そして1回、偶然福岡の空港でばったりお会いして記念撮影したw)、なんか巨大な守護神のようにわたしの背後にがっつりと存在してらっしゃる・・・。
 
なんか個人というよりは、叡智が結晶化したエネルギー体って感じ(どんな感じだ)!
 
 
わたしはよく日常でモヤモヤするのですが、ここ数日は「自由」についてモヤモヤしていた。
 

「この日常生活における不自由さと、”自由”って、本来的には無関係だよね?わたしはどこかで解釈や前提を根本的にまちがっている気がするんだよなあ」というモヤモヤなんです。
 
自由をはき違えていて、そこがクリアになっていない、という意味。
 
 
で、モヤモヤしているという状態はどういう状態かというと、アンテナを張っている状態。
コールして、レスポンスを待っている状態。
待ちだから、動けないからモヤっているだけ。
 
そして唐突にモヤモヤは晴れました。
松村潔先生のブログからの抜粋。「自由について」の記述を拾い読みして。


わたしはいくつかの本で、ほとんどの人は自由を勘違いしていると書いた。自分が好きなことをするのは自由ということではない。むしろ自分が持つ癖、好みに隷属することなので、好きにすることは自由とは反対の行為だ。こういう勘違いの自由も、高次なセンターとつながらない理由になる。


自由意志について考えてみると、世の中では自由意志というものをちょうど反対に考えている。みんながオムライスを食べている時に、ひとりだけステーキを食べたいと言うのは、自由意志の発揮だろうか。これはその人の好みに従った行動をして、周囲の人に合わせなかったという意味で、自分の好みとか身体的癖に従ったということだ。身体の機械性、感情の機械性、思考の機械性に従属して、他の人と合わせないのを自由意志の主張と思っている。これは自分の持つ条件に盲従することをあらわすので自由意志ではなく反対の隷属だ。この世界に住んで、自由意志というものを理解できるのだろうか。


っていうのをね、読んで。すごいすっきりしました。
 
コドモが赤ちゃんだろうが小さかろうが、どこでも行きたいところに行けるのが自由!とはまったく思わないし、資産家になってセミリタイアが自由!とも思っていないから、世間一般の自由をステキと思うことはないけれど、だったらわたしにとっての自由ってなんだ?と思っていたので。
 
ボディートークの「意識の原理」の教科書に、「完璧な男性/女性パートナー」「完璧な仕事」「完璧な子ども」のリストが挙げられていて、次のページを見たらゴシック体で
 

これは「完璧な」何かのためのレシピではなく、惨事のレシピに過ぎません。
悲惨な人生を保証して欲しいならば、せいぜいこの馬鹿げたリストにしがみついておきなさい!

って書いてあったのを見て「ボディートークって最高だな」と思ったのを思い出した。


わたしにとって、毎日noteを書く、ということは、自由という光に向かって進んでいることのような気がする。


身体がつらいときは書かない、というのは身体の機械性に隷属している。
気分が乗らないときは書かない、というのは感情の機械性に。
ネタが思いつかないから書かない、というのは思考の機械性に。

わたしが「自己認識」というものに、まるで恋しているかのように夢中になっているのもすべて、自分の機械性から、ロボットみたいにすべてにてきとうに反応しそうになる自分から、ちょっとでも自由になるためなんだ。

そっか、自己認識って、わたしにとっては「究極の自由へのプロセス」そのものだったんだ。

って、書きながら気づく。
書いていて、自分の中からなにが出てくるのかわからないことが最高だ。
そして自分の中から出てきたものに、自分がハッとさせられることがクリエイションだ。
 
 
物理的物質的自由のその向こうにある、広い広い、広い場所へ。

そこで会いましょう、わたしたちは。



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