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津和野町教育魅力化コーディネーターを終えて

2018年~2020年までの個人の記録です。
聞き慣れないこの仕事についた経緯、魅力・課題・可能性、今後の生き方を書き残したくて書きました。長いですが、読んでいただけると嬉しいです。

1、私のねっこ

 私は、富山県生まれ、富山県育ち。
AB型であることに誇りを持って生きていて、周りと違うことをすることに至上の喜びを抱く性格です。
 大学から埼玉に進学し、そのまま埼玉県で公立小学校教員を7年務めます。
 小さいときの将来の夢は、「薬屋さん」「警察官」「スポーツトレーナー」どれも、深い思い入れもなく、ただの思い付きで口にしていた仕事です。
 「小学校の先生」を目指したのは、高校3年になる春休み。きっかけは、たったの2つ。
 ①「みおちゃん、教えるの上手だね」と友達に言われたこと。
 ②小学生の女の子とサッカーをして楽しかったこと。

 そうか、じゃあ、わたし小学校の先生になればちょうどいいんだ!
そんな適当な思いで、真剣に大学受験をし、大学中は、絶対に「こども」や「教育」と関わらないと心に決めて、部活や自転車一人旅にいそしんでいました。そして、埼玉県の採用試験を受けて合格し、大卒で教員になります。

2、私の教員時代

 教員1年目。いつ辞めてもおかしくないくらい、クラスがしんどかった。でも負けたくなかった。一度決めたことを途中で抜け出すなんてひきょうもののすることだと思っていた。教員生活で大変なことベスト5のうち3つくらいは経験させてもらえたようなそんな1年でした。でもこの1年は忘れられない宝物です。あの時4年生だったみんなも、もうすぐ20才になるんだよね!一緒に飲みに行きたい!!会いたい!!ふがいない先生だったけれど、やる気だけはあったのよ。もう1回できることなら授業がしたいな…
 初任校は、3~6クラスもある大きな学校で勤めていて、たくさんの出会いがありました。子どもとも、保護者とも、先生とも、今もこれからも大好きなみなさんです。
 3年目の時、一度、民間のマラソン大会で熱中症になり、生死をさまよいました。死は、いつも隣にいることを思い知らされます。
 4年目の時、6クラス中3クラスの担任が子育て世代の先生達。家庭も仕事も両立させることの大変さを近くで見て、私の中の違和感が大きくなります。
 6年目の時、富山の実家で法事があって、久しぶりにあう親戚が年をとっていたこと。近所のおばあちゃんが亡くなったこと。
あぁ、私のうまれたまちは、あと10年後どうなるのだろうと初めて考えました。そして、だした結論が「富山に帰って、こどもと高齢者と働く世代が助け合える場を作ろう!」=「そんな場(カフェ)を作ろう!」
 すぐに同僚に相談し、管理職にも思いを告げました。当時の管理職には本当に感謝しています。突拍子もない私の発言を応援してくれたのです。
 7年目の時、カフェの学校に毎週土曜に通ってみるも、カフェじゃないよなぁと。そんなときに出会ったのが…

3、私とgreenz.jp

この出会いがあったおかげで、今の私がいます。「greenzの作文の学校」での出会い、ピープルとの出会い、そして、運命をかえた記事との出会い。

 この記事を見たのは7年目の年末の富山の実家。もう4月から富山に戻る気満々でした。
「島根で公教育を変えようとしてるんだ。すごいなぁ。記事の人、隣の石川県出身だ!しかも埼玉県で教員経験もあるから、いろいろ共通点ある~♪」
今思えば、それが中村純二さんとの出会いでした。w(本当に感謝!)

 greenzが上手だったのは、1月の中旬にこの二人が東京に来て話すイベントを作ってくれていたこと。

会うだけあってみたかったので、すぐ参加!あんまりイベントとか行ったことはなかったのですが、これは行きたいと心から思った。
話を聞いていて、いいな、富山に帰って参考になりそうだなと思って、すぐ帰ろうと思ったけど、じゅんじさんにあいさつだけでもしていかなきゃとい思い。「私、富山出身で、4月から富山に戻って、こういう仕事作ろうと思うんですよ~!」と話しかけたら、すぐに津和野町の役場の大垣さん!!(大好き!!)を紹介され、水戸さんも紹介してくれました。

余談ですが、大好きなgreenzさんに取材してもらったこともありました!
家宝です!!しかも会場は上のイベントの場所で…


3、私と島根県

 話は戻って、あいさつはするものの、最初は、(島根なんて行くわけないじゃん!)と100%その時は思っていました。
 水戸さんから「私たちの取組みは島根だけで終わらせたい取組みじゃないんだ。みおちゃんが、島根で勉強して富山に持ち帰るのもありなんじゃない?」と言われ。「あ~なるほど。たしかに」と思っていたところ、また違うイベントを紹介されるのです。

greenzのイベントから約1週間後のこのイベント。
それまでの間の私の頭には「島根もありかも」が浮かんでは消え。浮かんでは残り…
悩んでいても分からないので、このイベントでおもしろそうだったら島根いこう!!と決めました。
そして、あんのじょうすごく興味深かったので、その場で、津和野町の役場の楠さんに「わたし、これやりたいです!!」と伝えに行きました。
そして、4月から採用が決まり、私の津和野町教育魅力化コーディネーターとしての仕事が始まったのです。

ここまでの一連で、出会ってくださった島根関係の皆さんには感謝の言葉しかありません。誰かの一言で人生はこんなにも軽やかに変えていけるんだなと思います。4月以降、この時であった方々と出会えた時はいつもテンションが上がっていたように思います。

5、私と津和野町


 島根県には、津和野町以外にも「教育魅力化」に取り組んでいる地域はたくさんありました。その中でなぜ津和野町にしたかというと。それは、直感でしかありません。しかも他の地域のことも津和野町のことも全然調べてもいないくせに。w
 もし最初のgreenzのイベントで純二さんじゃなくて、大野さんに話しかけていたら、また運命は変わっていたかもしれません。その時その時の選択は、あとからじわじわ効いてきます。私は津和野町でよかったと自信を持って答えられます!

6、私の1年目~

とにかく、「やる気」に満ちた1年間だたっと思います。
どんな風に働いていたかというと、

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 こんなスケジュールです。昨年度まで純二さんが入ってくださっていた学校に入り、先生方と授業づくりを行いました。

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【2学期の終わりには、こんなものを配れるようになるまでちょっと整理できました】

 当時は、「教育魅力化コーディネーター」の役目は何??と各所から聞かれていました。役場のメンバー、純二さんとも対話を沢山しながら、少しづつ共通認識ができつつあるもののまだ少しふわっとしていたような気がします。

津和野町には、「0歳児からのひとづくりプログラム」があります。教育魅力化コーディネーターもこのプログラムの推進のためという目的で設置されました。

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【内容をざっくりまとめたもの)

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【めざす町の姿(まち全体が学びの場)】

理想は、分かる。でも具体的にどうしたらいいのだろう。
誰もやったことの無いポジションで、高校の魅力化コーディネーターとも違っていて。
ヒントは、純二さんとの対話の時間。
純二さんの好きなところは、いつも対等に接してくれるところ。「俺も答えをもってるわけじゃないから、一緒に考えよう」のスタンスでいつも話ができる。

「主体的・対話的で深い学び」ってこういうことだなというのを、1年目純二さんと話す中で掴みました。

【掴んだこと】
・まずは、なんでもすぐ話せる関係性をつくる。
・自分の理論を伝える。
・相手の話も聞く。
・そもそも何が重要かを話す。
・次の行動を決める。
・実践する。
・結果を報告する。
・喜び合う(良いも悪いも)

7、学んだこと

関係性のない所には、なにもうまれない

津和野町に来て学んだ一番大きいことはこれです。もう本当にこれ。
だって、嫌な人と一緒に仕事したくないでしょ。
どんなに正論を言っても聞きたくないでしょ。
逆に、好きな人だったら、なんでも許せちゃう。
まぁ~ちょっと大変そうだけど…がんばってみるか!!ってなる。

だから、コーディネーターだろうが、なかろうが、「関係性をつくる」ことはとても大切なこと。大人数でなくてもよい。たった一人でも安心して関係を持てる人がいれば、なんとかなるものです。


そういう意味では、教育魅力化コーディネーターは、学校の先生、子ども達、地域の人達と今までの生活では作れなかった「関係性」をつくるきっかけとして大きく機能する可能性があることに気付きます。一人の出会いで何かが動き出すように、そのきっかけを多く提供する役割ができると思います。とくにそれは「学校の先生」に対して有効であると考えます。

 自分の教員時代は、学校と家を往復するようなそんな生活でした。なので、出会いは限られていて。情報も偏っていて。何か新しく取りに行けばよかったものの、学校を出ると、全生命エネルギーが吸い取られるので、何もやる気がおきなかったです。

 一方、コーディネーターは勤務時間中に学校に出入りすることができます。どこかに来てもらわなくても。先生と職員室や教室での雑談の中で、良くも悪くも刺激を送ることができます。別にコーディネーターは何かをする必要はなくて、ただそこにいて話をきく・するだけでもいいのではないでしょうか?それが良いタイミングで先生と何かの関係性を作るきっかけになるかもしれません。

そんな「よはく」のような存在としての職業が津和野町で認めてもらえていることに感謝しています。

でも、課題もたくさん見つかりました。この仕事は、関係者がとても多いので、全員と十分なコミュニケーションをとることが難しいです。
なかなか「みんながいい」状態を作るのは難しいです。
学校はよくても、関わってくれた人はしんどかった。
その逆もあります。

それから、私にとっては津和野町は1年目ですが、津和野町自体の歴史はもっともっと深く、その方々が作ってこられた「既成の関係性」もあることを真に理解できていなかったために、新しく関わることでご苦労をかけさせてしまいました。課題としてあげるなら「関係性」です。

この課題を解決する手段は「対話すること」しかありません。臆せず話すこと。このことが本当に大切なことなのです。
これから先も、対話をしながら関係性を作って、よりよいくらしを作りたいです。

8、私の2年目~

2年目の2019年度は、立場が変わりました。
なんと二人も後輩ができたのです!
津和野町は旧日原町と旧津和野町が合併した町です。
それぞれの旧町に、1つの中学校、2つの小学校があります。昨年度までは、旧日原町の3校に入らせていただいておりましたが、今年度から旧津和野町の3つの学校にもコーディネーターを配置できることになったのです。
(これは1年目の成果!!)
二人の新しいコーディネーターに日原エリア、津和野エリア(最初は津中のみ)を担当してもらい、私は二人のサポートと、津和野エリアの小学校2つを担当することになりました。


4月は、とにかく二人に「いろいろ伝えなきゃ!」「学校に迷惑が掛からないように」との思いが強かったので、慎重でした。せっかく作れた関係性が壊れてしまうことの恐怖に駆られていたのかもしれません。

でもそんな中でも二人は、いつも素直に、できることを行っていました。2人とも、なんでも報告・相談してくれます。そのことが本当にうれしくて、二人との関係性を作るのに時間はかかりませんでした。

まず、自分が弱み・弱音を吐くこと。共有することから始めました。これは、関係性をつくる一種のコツのような気がします。


3人で話す時間も多く、悩み・やりたいこと、仕事以外のこともたくさん話しました。「教育」という枠組みを超えて「どんなくらしがいいのか、本当に大事なことはなんなのか」などなど、全部録音して編集しなおしたら、結構いい「本」が発行されるんじゃないかというくらい濃い対話を重ねました。

大好きな二人と今までよりも話せなくなることが今一番悲しいことかもしれません。

「教育魅力化コーディネーター」についても分かりやすい例えで説明することができるようになりました。

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【いてもいなくても困りはしないけど、いてくれたらいいかもの人】

 地域コーディネーターさんとの一番の違いは、学校との距離感です。地域コーディネーターさんは、地域との距離が近いです。教育魅力化コーディネーターは、学校との距離が近く、教員と授業どうしようか?のレベルから話ができます。先生と一緒に考える壁打ち相手の役割や、地域の情報や様々な情報を提供することができる存在です。

「先生が元気な学校は、こどもも元気」
これは、私がいつも思っていることです。何かと攻められがちな先生が元気になるようなことがしたい。というのが、私がいつも心に大事にしていたことです。
どんなに中身の濃い授業でも、先生の目が疲れ切っていたらどうですか?暗い表情の先生だったらどうですか?
こどもも悲しい気持ちになります。
先生が元気になるために動くこと=よい学びをつくること
と今も私は信じています。

 まだまだこれらの周知が、町内で徹底されているわけではないので、これからも役割を知ってもらえるようにわたしのできることをしていこうと思います。

9、最後に

 私は、2020年3月で「津和野町教育魅力化コーディネーター」を辞めます。仕事が嫌になったわけではありません。「肩書き」が嫌になりました。肩書がなくても関係性は作れます。私がほしい未来は、「being」でいられる未来です。「doing」するのはいったん辞めます。することは決めないで、することに追われないで、人との関係性、地球との関係性に目を向けられるくらしでいられるように。大切な家族との時間を過ごすことに一番エネルギーを注ぎます。9月に島根の人と結婚して今、お腹の中には、新しい命も宿っています。実は、11月に流産も経験しました。隠すことではないのでちゃんと伝えます。
 だからこそ、自信を持って言えるのは「being」でいい。今日もあなたがいてくれるだけで私はもう十分満たされる。だからもう何かすることに頑張りすぎるのはやめます。自分と旦那さんを愛するのです!

10、お礼

 この仕事は辞めますが、私は富山に帰りません。島根県(石見地方)にいます。益田市、津和野町、吉賀町のなかでbeingしています。急に現れたりするかと思います。なので、お別れの気持ちは実は全然ないのです。
 津和野町にご縁をつないで下さったみなさん。津和野町で関わって下さったみなさん。津和野町以外でもたくさん関わってくださったみなさん。家族。富山の友達。埼玉の友達。今私がいられるのは、みなさんと関係性を結べたからです。本当にありがとうございます。そして、これからもどうぞよろしくおねがいします。困ったことがあれば寄り添いに行きます!
 たくさんの出会いと感動をありがとうございました!

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最高の仲間と過ごした2年間でした!!

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