日常世界にも、他界は意外とすぐ近くにある
イントロダクション
これまでは、ただでさえ昔ばなしというニッチなジャンルを取り扱っているというのに、ニッチofニッチな「発端句」「結末句」について紹介させていただいた。
しかし、どんな物語でもそうだが、冒頭の書き出しや言い出し方というのは重要である。それこそ書店でタイトルに目を惹かれ、手に取り、そしてページを捲り、目に飛び込んできたたった数行で「あ、つまんなさそう」となるか「これは、良本かもしれない」となるかは、まさに発端句のおかげだといえよう。
その大事な一番最初の掴みが昔ばなしでは、ほぼ全てと言っていいほど「昔むかしあるところに」で統一化されている。なぜそうなってしまっているのか?それについては、これまでの回を読んでいただければ幸いである。
それでは、今回からは、昔ばなし自体の中身についてみていこう。
「他界」「異界」はすぐそばにある
表題に上げた「異界」とはなにか?なんてことはない、人間以外の異系のものが住む世界のことである。つまり、鬼や幽霊、山姥や仙人。当然ここには、人の言葉を喋る動植物達がいる世界である。そういった異類のものと昔ばなしの主人公たちはよく出会うし、動物が人の言葉を話していても気にもとめない。このことについては、前回「一次元性」という用語を使って説明させていただいた。今回は、この一次元性が「むかしむかし」はどうして身近にあったのか?について説明していきたいと思う
そこで、皆さんに一つ質問をしてみたい。日常で出会うことのできる人間の住む世界とはべつの世界。いわゆる「異界」というものだが、それはどこにあるだろ?
おそらく殆どのかたが、神社と答えるだろう。注連縄のかかった鳥居をくぐると、「スッ」と背中が伸びる感じを受ける。日本人の心のなかに「ここからは違う世界」という感覚があるのであろう。他にはどうだろうか?例えば、仏壇などはどうだろうか?扉を開いている仏壇をみると、何か感じるものはないだろうか?これは、扉の開閉によって、仏の世界である彼岸へと繋がったり、扉を閉じることで彼岸と此岸が隔離されているといことを、だれからに教わったわけではなく、心のどこかでかんじているのではないだろうか?ほかにはどうだろうか?
民俗学を大学や独学で就学した方であれば、教科書にも載っている話なのでご存じであろうが、実は「屋根」も異界だといわれている。と、言うのも、その家で亡くなった霊魂などは、一定期間屋根の上に居座って、それから彼岸の世界へと旅立つと考えられているのである。
じつはまだある。今は薄れてしまっているが、私達の暮らしている空間に、現世と異界との中間が存在するのである。
古い日本家屋の部屋の入口の高さは、おおよそ180cmである。これは、障子の高さが180cmというのも一つの理由ではあるが、(現代人のかたのなかには、うっかりしていて柱で額をぶつける。なんてことをする人もいるだろう。かくいう僕もそのひとりである)
その柱の上の部分、欄間のある高さに亡くなった家族や先祖の写真が飾ってある光景。目にしたことがないだろうか?
じつは、古い日本人の思想の中で、この180cmを超える上の世界を「他界」とし、私たちがいる世界とは別の世界だという認識をしていたという考えがある。
この考え、私たちの日常生活の中からは無くなってしまっているが、言葉として、今でも残っているのではないか?と考えている。
ただ、あくまでもこれは僕の持論であり、どこかに学説があるとか、そういうことを主張している著名な方がいるとか、そういうわけではないので、あらかじめ「うぷぬしの戯言」程度に思っておいてほしい。
(うぷぬしは、僕が解説している Youtubeチャンネル「ゆっくり民話解説」の中の僕を指す言葉だが、便利なのでここでも使っていきたい
幼少期、父親などに「たかいたか~い」と、父親の頭よりも高い高さに持ち上げてもらった経験はないだろうか?そう、もうお気づきだろう
「高い」と「他界」は同音異義語の関係性にある。
違うのは「高い」という場合のアクセントが【低高低】に対し、「他界」の場合は【低高高】であるということ。では「たかいたか~い」のイントネーションはどうだろうか?「他界」と同じではないだろうか?
言葉遊びにはなってしまうが、もしかしたらあの場合の「たかいたか~い」は「他界たか~い」と言う字があてられるのが、本来の形ではないだろうか?
赤子やお子を「他界他界」とはどういうことだ!!と、お叱りを受けそうだが、よく考えていただきたい。他界には何があるか?そう、祖父母や先祖がいる。だから、かれらに子の顔を姿を見せに行っているだけである。里にいる両親に、孫の顔を見せに行く。それと一緒である。それで言ったら、「むかしむかし」の人から見たら、現代のビデオ通話のほうがよっぽど恐ろしいに違いない。
だから「他界」は、怖い世界ではない。ただ、彼岸と此岸の朧気な領域であることは間違いないので、「たかいたかーい」をするときは注意して行うようにしなければいけない
「他界」は些細なことで現れる
それでは、これらを踏まえて、昔ばなしの中の、他界について見ていこう。
以前、動画にもしたが、笠地蔵がもっともわかりやすいので、例題としてあげることにする。
(この回では、笠地蔵そのものの構造や、他の物語とどう違うのか?について解説しているので、気になる方は見てみてください
まず簡単に、笠地蔵のあらすじを見ていこう
・お爺さんが正月用品を買うために、傘を売りに行く
・しかし、全く売れない
・帰り道に、雪を被ったお地蔵さんと出会い、持っていた傘を被せる
・夜、地蔵達が、恩返しにやってくる
大まかにいうとこういう流れであるが、この話のどこに他界があるかというと、「地蔵達が恩返しに来る。」というところが、他界といえよう。勘違いしてはいけないのは、これは他界の話であって、異界でも彼岸の話でもないということである。
どういうことか?もし仮に、石仏としての地蔵ではなく、地蔵菩薩がやってきた。というのであれば、それは異界であり彼岸の話だと言えよう。
しかし、この話は地蔵菩薩は石仏である。彼岸の世界の性質で、此岸の姿でやってくる。彼岸と此岸の中間の性質をこの地蔵はもっている。
先ほど紹介したように180cm以上、屋根未満の高さにある空間「他界」は、実社会の中で此岸と彼岸の中間に位置する。
では、どうして老夫婦と地蔵は他界で出会うことになったのか?
これは動画内でも触れているが、町に出かけるとき、おじいさんは希望に満ち溢れていた。
地蔵菩薩は、万人を救済するための仏であるため、このときのおじいさんを救済する必要性がないため、地蔵たちはお爺さんの前に現れなかった。
しかし、品物が売れなかったことでおじいさんからは希望が失われた。
よって、地蔵菩薩は救済が必要なお爺さんの前に現れ、その声をきくことにした。ここで、彼岸から此岸の世界へ降りてきたわけである。
そして、本来救済する立場にある地蔵に対し、傘を被せるという救済をおこなったことにより、地蔵菩薩はその行動に感銘を受け、この老人を助けるという行動にうつった。
もうおわかりであろうが、このタイミングで彼岸と此岸の境界が薄れ、他界。これまでの言葉を使うなら、これが「一次元性」である。なので、こと昔ばなしのなかでは、割と簡単に他界が現れたり消えたりする。
では、現代ではどうだろうか?まず、日本家屋の基本設計が変わってしまった。和室がないため欄間がない。仏間もない。瓦屋根の家も減ってきている。これまで日本人の生活の中にあった、他界、異界のシンボルが消えてしまった。つまり出会える機会が、皆無といっていいのである。
ただ、忘れないでほしい。アニメ「となりのトトロ」のキャッチコピーのことを。
「このへんないきものはまだ日本にいるのです。 たぶん。」
そう。出会える機会が減ったとはいえ、昔ばなしのなかで語られるような、他界も異界もまだ日本にはあるのです。でも、それを忘れてしまう人が増えると、それは消えていってしまうのです。
昔ばなしは、そういったことも伝えてくれている大事な文化なのです