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「生きる」に前のめり

これまでにも書いているかもしれませんが、「死ぬ」ということに対してわたしはあまり恐怖感がないのです。

それは、幼い時から「死」というものが身近であったり、その先で、今は会えない大好きだった人が待っている感覚があったりするからかなぁと思っています。

ただ、そこに怖さがないからなのか。
「生きる」ということへの執着も、同時にあまりないような気がしていました。

「これだけは、やらないと」とか「まだまだやり残したことがたくさんある」という感覚。耳にはするものの、正直、自分の中には生まれてこないなぁと感じていました。


しかしこのごろ、介護という仕事の中で「生」と「死」というものに直面する出来事が続いて起こっている日々です。
本当にありがたいことに、世間が非常事態だと騒々しいこんな時代でありながら、目の前で、その肌に触れられる距離で、「生きる」ということを生々しく魅せてくれる人たちが、わたしの周りにはいてくれます。

「なんかやり残したこととか、したいこと、欲しいものとかある?」
という若者の問いに、
「なーんにもない、やりたいことは全部やってきた。だからもう、思い残すことなんて一切ない。感謝だけやわ、今あるのは。」
と声をしぼり出す彼。この言葉を聞いたときに、なんてカッコいいんやって。苦しそうでしんどそうでも、抗うことのできない現実が迫っていることを受け入れ、そしてなお、彼という人生を貫く姿は、大きくて暖かくて、強くどっしりと根を張る大木みたいに思えたのでした。

わたしが今その時を迎えたら、これは言えんわけで。ちっぽけで、スカスカしてて、空気の中に消えてしまいそう。
悔いはない、とは言えても、やりたいことは全部やってきたとは言えない。
最後の最期に「やりたいこと全部やったね、お疲れ様!!!」って、そう自分に言いたい。そんな思いが、ふつふつとわいたのです。

小さい頃から、ずーっと悩み、考え続けている気がする「生きる」ということ。
これはわたしの長年のテーマであり、永遠のテーマであるような気がします。

でも今、うっすらと、ぼんやりと、そのトンネルの先に、あかりが見えたように感じます。蛍光灯か、太陽なのか、ほたるの光かわからない、そのぼやぁ…っとしたもの。
それを追い求めた果てに、まだ見ぬわたしがあるのではないかと、今はまだ知らない「生きる」ことの喜びとかおもしろさが見つかるのではないかと、少し体温が上がるような感覚になります。


とにかく今ある環境に、人に感謝して、「生きる」に前のめりでいたい!!!

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