『苺ましまろ』をコンセプトにしたインディーズ音楽レーベル「Novier Records」が最高な話

 記事のタイトルを見て、今更『苺ましまろ』かよ!とツッコまれた方もいるかもしれない。何せ15年も前のアニメである(…嘘だろ?)。とはいえ、原作はまだ連載中…なのであるから、現在進行形のコンテンツではあるのだ。そもそもぼく自身この作品を最近初めて視聴した、というのもある。

 御託はこのくらいにして、本題に入ろう。『苺ましまろ』は(アニメだと設定が少々異なるが)、一言で言ってしまえば、「不良女子高生が小学校高学年のロリたちと戯れる」という作品である。不良、といってもたかだか飲酒喫煙という程度だが。その女子高生・伊藤伸恵から煙草代をたかられる妹・千佳や、千佳にべったりで、ウケようとしてしばしば空回りした行動をとってしまう幼馴染・松岡美羽、いくらなんでも純粋すぎる彼女たちの一つ下の幼馴染・桜木茉莉、その親友にしてイギリス人のくせに日本語ペラペラの美少女転校生・アナ、といった個性豊かなキャラクターたちの、時にシュールで時に暴力的で時に心温まる日常が描かれている。

 この『苺ましまろ』をモチーフにした曲を集めたネット上のインディーズ音楽レーベルが存在する。そのものずばり「Novier Records(のぶえレコーズ)」である。「のぶえ」というのは、前述の女子高生の名前である「伊藤伸恵」からとられている。

 このレーベルから出ている音楽作品には、ある決まった特徴がある。それは、これらの作品が所謂「エレクトロニカ」である、ということだ(ここでは、エレクトロニカとはとりあえず電子音楽一般を指すものとし、その定義については触れない。面倒くさい音楽オタクたちの格好の餌だからだ)。

 百見は一聞に如かず、とりあえず聴いてみてほしい。
 (※映像がチカチカするので注意)

 紹介したのは、「のぶえレコーズ」3枚目のアルバム『Soine Kawaiine Tanzmusik』(モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』のもじりであろう。Tanzmusikはドイツ語でダンスミュージックの意)から、「英国すたいる」という曲だ。なんとなく、このレーベルの方向性がご理解いただけたのではないだろうか。『苺ましまろ』というアニメの映像・台詞・劇伴等をサンプリングし、陶酔感のあるトラックに乗せて作られた音楽、それが「のぶえレコーズ」の音楽の特徴である(手法としては、ナードコアと類似しているといえるかもしれない)。

 他にも数曲、個人的に好きなものを紹介しておこう。

 「のぶえレコーズ」4枚目のアルバム『Electroberry』から、「児童コンクリート」と「Whims and Caprices」という曲。WhimとCapriceは気まぐれやむら気という意味で、どちらの曲も「松岡美羽」というキャラクターの奔放さと闊達さをうまく表現している。前者のここすきポイントは曲の大サビ(?)の前にアニメのオープニング『いちごコンプリート』の冒頭部分がサンプリングされる箇所で、曲にメリハリがつけられている。後者のここすきポイントは、途中に挿入される千佳の「はぁ?」という音声で、曲構成の素晴らしいアクセントになっている(Aphex Twinの「4」を彷彿とさせる)。



 「のぶえレコーズ」自体は、2013年に『FUNK MASHIMARO』というアルバムを出してから沈黙状態にある。ウェブサイト、ツイッター共に更新が止まっており、現在稼働しているのかは不明。まあ、『苺ましまろ』のコミックスも、2013年に7巻が発売されてから次巻が出るまで4年半かかっていたし、多少はね?

 一応公式サイトのリンクを貼っておく。
 http://novierrecords.dousetsu.com/index.html



 さて、この記事で紹介したかったことは正直これですべてである。ここからは『苺ましまろ』と「エレクトロニカ」の親和性について書き散らしていこうと思う。

 『苺ましまろ』に限らず、ロリとエレクトロニカの相性はいい。これは完全なる個人的な独断と偏見だが、あながち的外れではないとも思っている。
 そもそも『苺ましまろ』原作者のばらスィ―氏自体たいへんな音楽好きで、漫画の本筋とは関係ない音楽関係の小ネタもなり多い。
 たとえば、登場人物たちが毎日のように入り浸っている伊藤家の部屋には、毎回異なる(しかもマニアックな)アーティストのCDジャケットが飾られていたり、主人公たちの着ている服にアーティストの名前が書いてあったりする。他にも、登場人物の一人であるアナの飼い犬の名前がフルシアンテ(Red Hot Chili Peppersのギタリスト、ジョン・フルシアンテからか)だったり、極めつけは、小学校の授業で歌われている歌の歌詞が、Radioheadの「Pyramid Song」の和訳である、というのもある。

(問題の曲。小学生が歌うには暗すぎる。ちなみに漫画では茉莉が「くろいーひとみのー天使たちーぼくといっしょに泳いーだら」と歌っている。原曲の歌詞の2行目「Black-eyed angels swam with me」に対応している。) 

 また、登場人物の一人・アナの出身はイギリスのコーンウォールという設定だが、このコーンウォールはAphex Twinをはじめ90年代後半以降のエレクトロニカ・シーンに多大なる爪痕を残した一連のアーティストたちの活動拠点でもあった。

 話がそれてしまった。ロリとエレクトロニカの親和性の話である。

 エレクトロニカという音楽ジャンルに属するとされる楽曲には、郷愁を誘うものが多い。例えるなら、小学生の頃、放課後に友達と遊んでいる最中、日が落ちて辺りが暗くなってきて、夕焼け小焼けのチャイムが鳴る…そんな感じだろうか。一例をあげてみよう。

 Telefon Tel Avivというアメリカのエレクトロニカ・ミュージシャンの「fahrenheit fair enough」という曲。ゆったりとしたリズムに乗っかるメロディが、その音色も相俟ってノスタルジックな気持ちにさせないだろうか。

 エレクトロニカによって惹起されるノスタルジーが何を対象とするか。それはおそらく、幼少期だとぼくは思う。思春期を迎える手前あたりまでの子供の時分。過去に閉じ込められ、二度とは帰ってこない、すべてが永遠に思えたあの刹那。エレクトロニカを聴くたび、そんな未来永劫手の届かないものに対する郷愁を掻き立てられる思いがするのだ。

 考えてみれば、エレクトロニカ・アーティストたちは、そのことを多かれ少なかれ意識していたのではないかと思う。たとえば、エレクトロニカに分類されるIDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)の大家であるBoards of Canadaがメジャーレーベルから初めて出したアルバムのタイトルは「Music Has the Right to Children」だし、同じレーベルからリリースされたChris Clarkのファースト・アルバム「Clarence Park」も、CDジャケットに子供の写真があしらわれている。




 「テクノ・モーツァルト」と称されるAphex Twinについても、1996年にリリースされた名盤「Richard D James Album」は、死産だった彼の双子の兄に捧げられているという(ここまでいくと行きすぎかもしれないが、アルバムの中には「Girl/Boy Song」という情緒的な楽曲もあるから、あながち彼の音楽と幼児期へのノスタルジーが関係が皆無だとは言えない…と思う)。



 また、厳密に言えばエレクトロニカではないのかもしれないが、エレクトロニカ然とした作品になっているRadioheadの4枚目のアルバムは、その名もずばり「Kid A」である。



 何より特筆すべきは、竹村延和の作品だろう。彼は長らく「子ども」をテーマにして作品を作っており、そこに描かれる幼児性からは、無垢と裏返しの残虐性が垣間見える。



 イノセントで残酷でもある子どもの倫理観以前の世界、ラカン風にいえば、象徴界以前の世界。そこで子どもは今よりも世界と地続きであり、ある種唯我論的で自己完結したナルシスティックな世界を構築しており、その意味で全能感を有することが出来た。

 しかし、世界の中に一個の存在としてあることを認識せしめられることで、その万能感は失われてゆく。その喪失は、人間が他者からは切り離された一個の個体だということの自覚によって生じる。

 たとえばプラトンは『饗宴』の中で、アンドロギュノス、つまり両性具有に関する神話を披露している。それによれば、人間はかつて雌雄同体の生き物であったが、神に反逆したがゆえに身体を二つに切り裂かれ、男の部分と女の部分に分かたれた(もちろん、男・男の組み合わせも、女・女の組み合わせも存在した)。それ以後、人間は本来の自らの片割れを求め、欠落を埋めようと渇望することになったという。

 ジョルジュ・バタイユは、同様のことを次のように言い換えている。「人間は非連続的存在であります(お互いは深い淵で隔てられ、各自は己れのために死に、その死は彼以外の何者にもかかわらない)。[…]非連続的人間存在はその非連続性を最後まで生き抜くが、それは根源的連続性への郷愁の内においてであります」(「エロティシズムと死の魅惑」、角川文庫『マダム・エドワルダ』p.218)と。

 澁澤龍彦は、これらの見解をまとめて、人間が性別を持った非連続的存在であるからこそ存在への不安が生じ、同時に二つの性という対立によって歴史が生まれてきたのだとする。そのうえで、雌雄同体のアンドロギュノス、あるいは無性人間であったというアダムとイヴが暮らしていた原初の黄金時代は「時間の停止した、歴史の外にある、永遠の現在ともいうべきパラダイス」(中公文庫『エロティシズム』p.131)であったと考える。

 それならこの永遠は二度と手にすることが出来ず、人間は非連続的な生の中で藻掻き苦しむしかないのかといえば、そうとも限らない。澁澤はその方途を「子ども」に見る。子どもは性的に未熟であるがゆえに、またあらゆる大人の禁制から自由であるがゆえに、一方の性に重きを置かず、原初の黄金時代を無自覚に体現しているのかもしれない。そして、澁澤はアメリカの心理学者ノーマン・ブラウンの言を引きながら、このように言う。「わたしたち大人は、かつて子供の一時期に、それぞれアンドロギュノスの理想を実現していたのであり、ただ現在、その記憶を失っているだけのことなのである。だから、過去の記憶の暗黒をさぐって、『失われた子供の肉体を少しずつ発見して行くこと』が、とりも直さず、文化や芸術の領域で、ふたたびアンドロギュノスを実現することになるのだ」(前掲書p.140)と。

 加えて、このように世界と放縦な関係を取り結ぶことができるのは、一般に少女、それも処女であろう。性的に未熟で、純真な少女だけが「朝食前に6つの不可能事を考え」ることができる(その想像力が「処女」の持つデモーニッシュなパワーと結びつけば、『ひなぎく』や『小さな惡の華』の少女たちのようになるのかもしれない)。

 そういえば、エレクトロニカとロリの話だった。まとめると、エレクトロニカは幼少期への郷愁を喚起する。その幼少期において人間は、大人は忘れているのだが、今よりも遥かに世界と蜜月の関係にあり、彼らにとって世界はある種の無時間的なユートピアであった。一方で少女は、そうした世界との関係を最も放埓に、想像力の限りを尽くして取り結ぶことのできる存在のイコンである。少女はエレクトロニカによって喚起されるノスタルジーの極北を体現しているとでも言えよう。

 脱線もいいところだが、ここで無理くり『苺ましまろ』に繋げれば、2005年放映のTV版アニメのエンディングでは、こんなことが歌われている。


  「明日さえ まだ知らない
   ねえ、遊んでばかりいたあの日」(「クラス・メイト」)

 作品に出てくる少女たちは、反復する日常を延々と過ごし続ける(だからといってループものではないのだけれども)。そこは言ってしまえば何らかの対立によって「歴史」が生じることなく、時間が過ぎることのないユートピアである。彼女たちは「明日さえまだ知ら」ずに、そこで永遠を享受し続ける。そのような彼女たちの世界とのつながりこそ、エレクトロニカが呼び起こす郷愁のかくあれかしという姿なのではないだろうか。 


参考にした動画


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