評論などくだらない #1 「籠の中の鶯」

評論など本来くだらないものだ。
人がどう考えようと自分自身に明確な見方、考え方があればそれは素晴らしい事だし、評価されるべきだ。
しかし、時として私たち人間はさまよう生き物だ。
迷って、間違って、新しい道を見つけてはまた歩いていく。
そういう人生に道標を自分で立てながら歩いていく際に必要になるからこそ、評論というものは存在している価値があるのだと私は思う。

もう一度言う。評論などくだらない。
だけどやるのだ。

今回は近年のアイドルブームの中で普通のイメージで言えば異質な存在とも言えるがそのアーティスト性で人気を伸ばしているグループのライブレポートだ。

彼女たちは時に自分たちのパフォーマンスを客観的に分析し、自らのレベルが想像したものと違うとSNSなどで自らの至らなさを平気で吐露する。
これに関しては賛否両論有るわけだし、筆者もそういうものを見せられるのは気分の良いものではない。
本来アイドルは鮮やかな衣装に彩られて、きれいな言葉で、清らかな存在であるべきというのが印象かもしれない。
しかしその論理は「アイドル=偶像」という物の本質論としては成り立つかもしれないが、この所のブームを支えているアイドルたちはもはやそのカテゴライズを優に越えている。

今回のグループもそういうグループなのだ。

オープニングアクトに関していえば内輪ウケの様に写ることもあるかもしれないが、それが制作サイドなりの照れ隠しなのかもしれない。
評価に耐える創造性をもって何かを作り出している場合、時に我に返り「自分は何をしているんだろう?」と思う瞬間がある。
もちろんそう感じない人はそれはそれで大きな強みだといえるし、ある意味のアーティスト性とも捉えられる訳だからマイナスな事は何ひとつないが、人というものは皆等しく強い存在ではないということだ。
評価されるものを作りつづけるための息抜き…それが少し外した表現になって現れているんだと考えれば合点もいく。
前置きが長くなったがこのオープニングアクトでさえちゃんとしたエンタメになっていた。
どこぞのネパール人(もちろんファンは皆素性を知っている訳だが)とメンバーの母親の対談など前代未聞だ。
しかもその母親が現役時代の三沢、小橋とボーリングに行くようなディープなプロレスファンでかつファン歴35年のTHE ALFEEフリークなど誰が予想しただろうか?
聞くことに意味がある非常に中身の濃い対談であった。

一つだけいっておくがこれはアイドルのライブツアー初日のオープニングアクトの話である。

オープニングアクトが終わり、少々の転換を経て本編が始まった。
まずは1ヶ月前から療養に入っていたエグゼクティブプロデューサー兼メンバーの駄好乙が本ライブで復帰ということでそのほかのメンバーと会場のファンによる呼び込みで登場。
会場全体の祝福とともに迎えられ、今回のライブツアーの意気込みなども含めて語った。  

そしていよいよ本編に入る。
具体的なセットリストなどはSNSに溢れているのでそちらに任せるとして、パフォーマンスを見た全体的なイメージから備忘録的に記していきたい。

このグループが出来上がった頃はメンバー全員がある意味素人で、本当にゼロから手探りで作ってきたグループであった。
それゆえ初期のパフォーマンスは他のグループに比べれば厳しい見方をされる時もあった。
それから時間をかけて事務所もメンバーもファンも一緒になって雰囲気を作っていき、ある程度の形になった所で彼女たちは第一期の進化を遂げる。
それは自分たちの内部を解放し、パフォーマンスにぶつけ始める事だった。
自らを切り裂き、その一つ一つの気持ちを歌に乗せて会場全体にぶつける事を始めた。
この頃の印象としてはある時は狂気すら感じるそのパフォーマンス一つ一つはダイナミックかつインパクトは強かったが、それと同時にクオリティがついてこなかった。
何も分からない所から始めた彼女たちなので仕方のない事。
しかし、今日のライブを見た後に考えると、この進化はいまの彼女たちを構成するのに不可欠な事なんだと気付かされた。
第一の進化から数ヶ月の間に彼女たちはその自分たちの武器をコントロールする術を身につけた。
激し目の楽曲が続くセクションでは自分たちの内面はある程度控え目に制御して客席との分離を防ぎ、ミディアムテンポやバラード調の落ちついた雰囲気のセクションでは感情を上手くコントロールしながら解放し、観客の心を掴んでいた。
この緩急が出来るようになるのが実は一番重要で、全てを同じ階調で塗りたくった絵がつまらないように、激しさで全体を押し続ける事もまた退屈なのである。

今回はワンマンライブであることも成功した要因と言えよう。
出演時間が短い対バンライブと比べ、自分たちしか出ないライブで長い時間使えてセットリストで流れを作れるワンマンライブはこういった演出が比較的しやすい。
この先は対バンでどれだけこの雰囲気に近づけられるかが鍵となる。

そしてライブの終盤。
事前にアナウンスされていた新曲披露。
死後に天地を求める主人公を描いた「楽園」と、自分たちの過去、現在、未来を綴ったツアーのタイトル曲「若者のすべて」が披露された。
楽園に関してはいままで彼女たちの楽曲にはなかった鍵盤を前面に押し出したピアノロックな楽曲であったが、ちょっとピアノロックと銘打ってから聴くといまいち迫力がかける印象だった。
楽曲としての出来は申し分ないが世にあるピアノロックはもっとアグレッシブに鍵盤が奏でる楽曲が数多く存在するのでそこで括ると普通のバンドサウンドとの境界線が曖昧で若干薄味に感じた。
フレーズ事態は悪くないので仕上げで大きく変わる可能性もあるが、ここは割り切ってギターパートを敢えて削ぎ落としてきたら筆者の印象は「攻めてる!」に変わっていたかもしれない。
この部分は少し残念だった。

もう一つ新曲「若者のすべて」。
この曲は先行してMVが公開されており、ライブに先駆けて聴く事が出来たが、まず筆者がタイトルから受けたイメージは「フジファブリック」だった。
フジファブリックファンとしてはこのタイトルには胸に熱いものを感じたが、歌詞を見て、曲を聴き、今日メンバーから語られた自分たちの過去、現在、未来というテーマを聴いてますますフジファブリックの「若者のすべて」に通じるものを感じた。
フジファブリックの「若者のすべて」は曲中で自分たちの過ごした時間軸が変化して進行する名曲であるが、そのタイトルをこのタイミングで新曲とツアータイトルに採用したあたりに、いまの等身大の彼女たちの人生観とこれからの夢や希望に加え、全てが上手くいくわけではないし、挫折を知っているからこそ表現できる音楽性に向けた思いが込められてる気がしてならないのである。
これは完全なる筆者の妄想であるが。

この曲の最後にある「友達はいらない。ここでひとりでいい」という歌詞は、ある意味ではいまの自分に対する強がりのようにも写るが、この世界で生きていく覚悟とも捉えることが出来る。
走り出した自分たちがどこまでいけるか果てしない旅をしている中でこの曲が担う意味は非常に大きい。

偶然だが同名のフジファブリックの「若者のすべて」でボーカルの志村は曲の終盤こう綴っている。

最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな?
同じ空を見上げているよ。

自らの姿を、仲間と空を見上げる姿を想像して描いたのだろうか?
しかしこの数年後彼は突然この世を去ることになる。
人生というものは時として残酷で、上手くいかないことも数多く存在する。
むしろうまくいかないことの方が多いのである。

籠の中に閉じこもっていた五羽の雛がそこから飛び立ってどんな空を飛ぶのか。
このグループのこれからがいまから楽しみで仕方がない。

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