ただ同じ趣味を持っただけ
好きなバンドのライブを観に行くようになり、その趣味を通じて知り合って話すようになった人たちと、ライブの日やそうでない日にたまに会うようになって、気づいたら結構な月日が流れていた。
そういう人たちと行くライブのあとの打上げは、すっかり趣味にまつわる大きな楽しみのひとつになってしまった。心底から好きなことについて存分に話せる場所があるうれしさを、大人になって改めて知ったようにおもう。みんな思い思いに、強く焼き付いている場面のことや、これまでになかった心の動きや、そんな話をする。あの曲のここがよかった、あそこのアレンジが変わっていた、あの演奏を聴いたか、あの表情を見たか、わたしにとってのこの曲の意味はきょう変わった、あの音に、あの声に、心をつかまれた。すごくいいものをみた、聴いたという充足感、じぶんが何かしたわけでもないのになぜか湧いてくる達成感、音楽に衝き動かされたさまざまの感情。同意し共感したり、べつの見方を述べてみたり、誰かのことばに喚起されて思い出すことがあって、またそこから話が膨らむ。ついさっき目の前で起きたことの残像が見えているうちに、耳の中に残響があるうちに、まだその感触を覚えているうちに。それらをできるだけ逃がすまいとする熱をもって、ことばを交わす。
あるいはなんでもない日に会うのもいい。単純に、このミュージシャンの、この曲の、どんなところが好きかという話をしてもいいし、気に入っているライブのことを思い返してみてもいい。べつに音楽のことを話さないといけないわけでもなくて、出てきた料理がおいしかったらその話をすればいいし、相手の服がすてきだったらそれを褒めたっていいし、さいきんのできごとを聞いてもらいたかったらそうすればいい。言ってみればただ偶然同じ趣味を持っているというだけの相手だから、しょうもない話をして、しょうもないなあとおもうことがあってもいい。
お互いのことを深く知っているわけではなく、「ただ偶然同じ趣味を持っているというだけ」の人と、おいしい店を探して一緒に飲んだり食べたりしに行く。考えてみたら不思議なものだ。その人と共有するものといえば好きな音楽しかないはずなのに、何度会っても、そのたびに何時間も話していても、話題が尽きることはない。
ひょっとすると「お互いのことを深く知っているわけではない」というのは正確ではないのかもしれない。その人を取り巻く具体的なことについては確かに深くは知らないが、「この人はこの音楽のこういうところが好きなんだ」というのを知っているというのは、それなりに重要なことだとおもいたい。好きなものについての話というのはちょっと聞くとたわいないようでいて、たぶん、へたにその人自身のことを聞きだそうとするのよりも、ずっと本質的な話になることがある。
それで、そういう相手と交わす乾杯は、単に儀礼的なものではない。大好きなあの音楽に、あのバンドに、きょうの日のライブに、それらを好きになった自分自身に、同じようにそれらを好きなあなたに。あらんかぎりの祝福を込めて乾杯をする。そんな乾杯の瞬間をわたしは愛おしいとおもう。
ずっと前のことを思い返すと、わたしは飲み会というものがあまりとくいではなかった。酒が入ったからといって腹を割って話せるというものでもないし、人数が多かったりなんかすると結局だれともたいして話せずに終わってしまうし、次の日に覚えているようなことなんてほんの一部だし、わたしにはそこまでして会って話したい相手も話したいこともない。おおよそ人と話すということが苦手なのだろうとみずから決めてかかってもいた。
それがいつの間にか、誰かとグラスを挟んでことばを交わすということに、これほど前向きになっている。
不思議なものだ。集まって乾杯することがむずかしくなったいま、わたしはできるだけ早くまたそういう人たちに会って話したいと願ってすらいるのだから。
ライブを観に行きたい。それで、観終わったら近くの店にでも集って、それぞれの熱をぶつけよう。なんでもない日に、ご飯がおいしい店に出かけて、同じものを味わいながら各々好きなものやことについて延々話すのもいい。「ただ同じ趣味を持っているだけ」の、いまとても会いたい人たちとの、あの一見たわいもない乾杯にどれだけ満たされていたかをおもう。
つぎにそれが叶う日が来たなら、その時の乾杯には、いつもの祝福に加えてもうひとつ、心からのよろこびを込めようと決めた。こうして会って話せるのが、ほんとうにうれしいのだと。
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