素描あるいは日記
1
日曜日、朝方まで雨が降っていたからか空気が湿っていてぬるい。朝の川沿いの草いきれが強くなってくると、ああ今年も夏が来るのか、と気づく。
窓を開け放ってコーヒーを飲みながら本を読む。ちょうどお昼時になって空腹を感じたのでパスタを作って食べる。とりわけ予定のない休日の昼、午後は何をして過ごそうかと考えている時、時間が無限にあるかのような幸福な錯覚に陥る。じっさいはほとんどの場合、たいしたことをしないうちに夜になっている。
いかにも日常らしいそういう一日を過ごしていると、どうもいま世の中が全く日常と呼べる状態ではないことを忘れてしまいそうになる。お気楽と言われればその通りだが、それはそれで、わたし個人の心身にはいいのかもしれない。
2
家で過ごす時間が増えてから、丸一日出かけないにしても髪型は整えて、それなりにきちんとした服――さすがに在宅勤務の日であってもスーツは着ないが、すくなくとも寝間着やジャージではないもの――を着るようになった。
理由はいくつかあって、好きに出かけられないぶん家の中でも自分の気持ちが多少明るくなるようにというのもあるし、すきな服をクローゼットの中で眠らせておきたくないというのもある。在宅勤務の日であれば、勤務時間とそうでない時間との区切りをつけたいとか、誰かとリモートで話す日であれば最低限人と会う時に求められる身だしなみの水準に達していなければとか、そういう実用的な事情もある。
それからもうひとつ、しばらく誰にも会わずに過ごすようなとき、じぶんがこれを着たいと思うものを着ることによって、なんとなく、じぶんはうまくやっているぞという感覚を得られるような気がするから、というのも挙げられるとおもう。
非日常のなかでも、じぶんの形を変えないように、いつも通りに、ごくふつうの一日を過ごせるように。できるだけ不安にならずに、機嫌よくいられるように。
じぶんのからだというのは、近いようでいてじぶんではほんの一部しか知覚できないもので、だから衣服によってじぶんという存在の輪郭がわかるのだ、というような話を、たしか鷲田清一さんの文章だったと思うが、読んだことがあった。そうだとしたら、他者と接する機会が減って、じぶんという存在をじぶんでしか把握しえないような時間が増えている中で、誰に見られるわけでなくてもじぶんがこれと思う服を着る、というのは理に適っているのかもしれない。
もっとも、これを書いているいまは、書き終えたらいつでも寝られるようにと部屋着になっているのだが。
3
夕方、石鹸がなくなりそうだったのを忘れていたことに気づいて最寄のドラッグストアへ行ったが、いつも使っているものが売っていない。パッケージの色と文言と値段をざっと見て、これならいいだろうと思うものを買ってきた。いままで使っていたものよりも好きな香りだった。このぐらいのことでも、人間だいぶ機嫌がよくなるものだなと思う。
書くことを続けるために使わせていただきます。