雑記・2022年9月

気付けばnoteの更新をサボりっぱなしで半年が過ぎ、その間に私は西日本から東日本に居を移し、またひとつ歳をとり、そうして今年度の上半期が終わろうとしている。
今朝はどこからともなく金木犀の匂いがしてきました。街角の空気も完全に秋のそれです。

時間が経つのは年々早くなる。毎年同じことを言っている気がする。

9月半ば、残暑の中に秋の気配が混じるぐらいの頃にくるりの「八月は僕の名前」がリリースされて、それがすごく良い曲だったので今年の夏は良い夏だった。

ピアノの音色になつかしさを覚える。
ノスタルジーに弱い。

ノスタルジーついでに思い出した話で、昔読んだ小説や何やらを読み返すことが最近は多い。
ストーリーを忘れているところもあるし、覚えていても自分の年齢や立場が変われば印象が変わる。新鮮な読書体験には読んだことのある本であろうとなかろうと関係ないのです。

なにも力説することはないんですが。

自分が主人公の少年と同じぐらいの歳の頃に読んだ、椎名誠さんの私小説『岳物語』と『続・岳物語』は、今読み返すと父親の方の感情の陰影みたいなものがよりわかる気がした。気がするだけかもしれない。

佐藤多佳子さんの『しゃべれどもしゃべれども』も同じぐらいの時期に読んだはずだが、白状すると、メインの登場人物に「外山」と「十河」がいたことと、概ね面白いと思ったこと以外忘れていた。
その頃よりも多少落語がわかるようになった分、噺の題名とあらすじと演者の特徴の描写を読んで浮かぶイメージがだいぶはっきりしたなと思う。
だからやっぱり落語は観て、聴いてなんぼだなとズレた感想を抱く。

ノスタルジーが高じて年々古いものに惹かれるようになっている気もする。落語もそのひとつかもしれない。
日本画なんかにも以前はほとんど興味がなかったのに、最近は東京藝術大学の大学美術館で開催されていた展覧会に伊藤若冲の鶏を見に行って、ほほうと見惚れていたりした。

日本画も良いなと思って山種美術館に行ってみたら、また初めて知る画家の絵でとても好きだなと思うものに次々出会えるので驚いた。
朦朧体なんて呼ばれたりして批判されていた横山大観や菱田春草の絵は、西洋で言うところの印象派に通じるところがあるな、などと勝手に思いながら見ている。空気や光、印象を捉える絵。

つらつらだらだらと最近の出来事を書いているものの、特段書きたいネタがあったわけではなく、オチもない。
オチはなくとも時間は過ぎるし9月は終わるのです。
明日が10月1日だなんて嘘だ。9月31日ですよ。

そんなわけはない。

ぼーっと日々を過ごしていると金太郎飴みたいな毎日がただただ繰り返されるだけで何をして何を考えていたかなんてすぐどこかへ消え去ってしまう。そう思ったのでコロナ禍が本格化した一昨年の春ごろから毎日短くても手書きで日記をつけることにしていた。
それがこのところしょっちゅうサボって、2,3日分、下手をすると10日分から半月分くらいをまとめて書いたりしている。
当然10日前や半月前のことなど覚えていない。
どうかすると前の日の天気や食事も忘れている(これはさすがに危ないのではないか)。
とんだ本末転倒なのだが、それでもなんとなくページは埋めておきたい一心で何か書く。しかしこれは捏造された記憶だったりしないだろうかと考えてみたりする。

ちゃんと1日1日を積み重ねている、という実感がほしいのかもしれない。頼りないものではなくて、確かにこの日はこうやって生きていたぞという実感。

そんなことを思っている同じ人間が休みの日は昼過ぎまで寝ていたりするから面白い(ただし面白がっている場合ではなく、やるべきことは山積している)。

オチもないし落としどころも見失ってしまった。南無三。

そんな2022年の9月も終わる。

書くことを続けるために使わせていただきます。