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読"食"漫筆:吉田篤弘「それからはスープのことばかり考えて暮らした」

 タイトルにひねりをきかせたように見えるがなんのことはない、堀江敏幸さんと角田光代さんの『私的読食録』の真似事である。

 というか正確に言うと、『私的読食録』を読んで、そこに出てくる本を単に自分で味わいたくなったのだ。

 吉田篤弘さんの『それからはスープのことばかり考えて暮らした』について書いてみる。
(以下、内容に関する記述を含む)

 堀江さんはこの本についての「読食録」の中で、ある人の家でスープを食べた時のことを述懐する。

 ひと口飲んで、驚いた。複雑で、同時に「ふつう」の味だった。ひと口目よりもふた口目、ふた口目より三口目がおいしくなる味。ある日、試作の材料の余りものを全部ぶち込んだらできたのだという。私は三杯おかわりした。
(「それは私が作ったスープかもしれない」(『私的読食録』より))

 そのスープの味を長い間忘れられなかった堀江さんは、吉野篤弘さんのこの作品で「なんとかもう一度、飲んでみたい」という願いを叶えたらしい。
 ひと口目よりもふた口目、ふた口目より三口目がおいしいスープ。それは飲んでみたい。そういうわけで、私は手始めにこの作品を手に取った。

 主人公のオーリィ君(正しくは大里君なのだが、アパートの大家のオーヤさん――通称マダムーーの始めたこの呼び方が周りの人にも定着してしまう)は、仕事を辞めて、今の町に引っ越してきてまだ間もない。新しいアパートは前のところよりも少し家賃が安くて、隣に教会があり、その十字架が部屋の窓からすぐ目の前に見える。
 オーリィ君が新しく住み始めた町の商店街には、「3」と書いて「トロワ」と読むサンドイッチ屋さんがある。店主の安藤さんが作るサンドイッチはとてもおいしい。安藤さんの息子のリツ君は小学四年生で、大人びている(と同時にませてもいる)けれども幼さや繊細さもあって、おそらく年相応と言えるぐらいにアンバランスなところもある。
 トロワのサンドイッチを買って、町を走る二両編成の路面電車に乗って、オーリィ君は隣町の映画館「月舟シネマ」へ通う。

 いや、オーリィ君、率直に言って羨ましい。とても羨ましい。
 私もその町に住んでみたいし、トロワのサンドイッチを食べたいし、月舟シネマで映画を観て、ほんの一瞬だけ登場する銀幕のあの人に恋焦がれてみたい。しかも、オーリィ君本人も、オーリィ君が出会う人たちも、愛おしい人物ばかりだ。マダムも安藤さんもリツ君も、オーリィ君が憧れる「あおいさん」も、映画館で出会う緑色の帽子の女性も、みんな優しくて、それぞれ不器用で、完璧ではなくて、そこがとてもいい。

 トロワのサンドイッチは特別な材料を使っているというわけでもなさそうで、メニューもシンプルだ。

 ……ハムのサンドイッチ……きゅうりのサンドイッチ……それに、チーズのサンドイッチ……たまごのサンドイッチ……それから、いちごジャムのサンドイッチ……甘いのもあるのか……それに?……じゃがいものサラダのサンドイッチ!
(「サンドイッチ」(『それからはスープのことばかり考えて暮らした』より))

 それがオーリィ君にとっては「人生が変わってしまうほどの味」なのだが、「どうしてこんなにおいしいんでしょう」と聞かれた安藤さんは「お腹が空いていたのでしょう」なんて、とぼけたような(でもたぶん本人は大真面目な)答えを返す。それでも何かコツがあるのではないかと質問を重ねるオーリィ君が、辛うじて安藤さんから得た答えらしきものは、たとえばこういうものだろう。

「しいて言うと、細い指先をもった人は、コツなんて知らなくても、きっとおいしくつくれます」
「どんなに良い材料を使っても、パンに指のあとを残したら駄目です」
(「サンドイッチ」)
 安藤さんは、つくり方はすべて自己流で、あとはただ当たり前につくっているとしか答えなかった。が、その「当たり前」が、毎日つづいていることに何より驚かされた。
(「月舟シネマ」)

 自己流のつくり方であってもこれだけはという信念のようなものを守って、「当たり前」に忠実に、そしてその「当たり前」を絶えず続けること。
 リツ君から「うちの親父は、まじめすぎて面白くないですよ」と言われてしまうほどまじめな安藤さんの人柄が現れたサンドイッチは、いつも間違いなくおいしいだろうと思う。

 スープの話のはずがサンドイッチについてばかり書いてしまった。そしてまだもう少し、スープの話のほかにも書きたいことがある。

 作中でオーリィ君が観に行く映画はどうやらモノクロらしいが、この作品自体はなんだか、少し色あせたカラーフィルムのような質感の映像を思わせる。年を経て色が飛んでしまった、かわいた明るさのある画面。

 物語の中で何か派手な事件が起こるというのではない。出てくる人たちがそれぞれに抱えている寂しさや悲しみのようなものはあるが、それも彼らの日々の生活に溶け込んでしまっていて、それをいちいち取り上げて嘆いたり苦しんだりするという類いのものではなくなっているように見える。まだ子どもであるはずのリツ君ですらそうだ。彼らの日常はとても穏やかで、淡々としている。
 それなのに、なのか、あるいはそれだから、なのか、どちらが適切なのかわからないが、どうしてこうも泣けてくるんだろうか。

 オーリィ君が新しい深緑色の靴を履いて「あおいさん」の家にスープの作り方を教わりに行くところで不思議なくらい泣きたくなってしまって困った(その場面を私はよりによって食堂で読んでいたのだった、誰も見ていないと思うけど)。
 ただ、私がいちばん泣きそうになったのは、それで「あおいさん」と会うシーンそのものではない。
 オーリィ君からすると、靴は白か黒かで気に入った安いものを買うのが常で、「『深緑色』は『手に取ることもない』に限りなく近」いものだが、「あおいさん」にまつわるものから連想して、その靴を買って、彼女のところへ向かう。

 天気が良く空気が澄んでいたこともある。ふだん歩いている駅までの道が、すみずみまで磨かれているように感じられ、それはおそらく、いつもと違う時間帯の舗道を歩いているからで、そこに射し込む光の加減が微妙に違っていたせいだろう。
 ときどき何年かに一度、そんな時間というか光に出くわす。肺の中や胃の中までもが洗浄されたようにすっきりし、あまりにすっきりして、そのうち自分の影さえ消えてなくなるのではないかと危ぶまれた。
(「秘密と恋人」)

 この道中の描写にどうしてここまで泣きたくなるのか、読み返しても不思議でならない。
 けれども、オーリィ君が真新しい深緑のスニーカーを履いて歩く、すみずみまで磨かれたような道を想像する時、それが何かとても特別なものであるように感じられるのは確かだった。あるいは私自身もこういう光に出くわす瞬間を懐かしんでいたのかもしれない。
 穏やかで淡々とした日々に、ふいに訪れる瞬間。何か足下がふわふわして、ある意味では何かから解き放たれたような、またある意味では「自分の影さえ消えてなくなるのではないかと危ぶまれ」るような瞬間。
 たぶんそういう時、自分の底のほうで溶け合って流れていた感情が分離してぐっと表層近くに持ち上がってくる代わりに、普段の心理状態はどこかへ追いやられて、妙に心もとなく、切なくなるのではないかと、そんなことを思った。

 肝心の「スープ」についてまったく触れずにここまできてしまったので、最後になるべく手短に。
 オーリィ君が「あおいさん」に教わって作るスープのコツの要は「とにかく、おいしい!」という一言に集約されている。

「あのね、恋人なんてものは、いざというとき、ぜんぜん役に立たないことがあるの。これは本当に。でも、おいしいスープのつくり方を知っていると、どんなときでも同じようにおいしかった。これがわたしの見つけた本当の本当のこと。だから、何よりレシピに忠実につくることが大切なんです」
(「秘密と恋人」)

 オーリィ君は教わったレシピを忠実に守りながら試行錯誤を重ねて、「あおいさん」のではなくオーリィ君自身の、あるいはオーリィ君やトロワの親子やアパートのマダムーーみんなにとっての、そういうスープをつくる。

 種を明かしてしまえば、スープには何を放り込んでもいいのだ。そのときあるものを、鍋はぜんぶ受け入れて、煮込んで溶かして、「とにかく、おいしい」スープにしてくれる。それが「名なしのスープ」であるのは、それがつくる人ごとの、つくる時ごとのおいしさを持ったものだからだろうか。ありったけの材料が溶け合ったスープは、誰がつくっても、どんなときでも、間違いなくおいしいはずなのだ。

 そして私もやはりこの、ひと口目よりもふた口目、ふた口目よりも三口目がおいしいスープを何度でもおかわりしたいし、どうせなら自分でつくれるようになりたいとレシピを読み返すのである。

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