画家の魂:原田マハ『たゆたえども沈まず』

 国立国際美術館で開催されている「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」のいちばん最後の展示室で、その花と対面した。

 力強い筆致で重ねられた眩いばかりの黄色。背景にすっと引かれた青い線がその花をいっそう鮮やかに見せている気がする。ほとんど黄色一色の絵を見て、燃えているみたいだ、と思ったのはたぶんこれが初めてだ。
 フィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」だった。

 美術や世界史の教科書でも何度も見たことがある、よく知った絵なのに、それでも目を開かれる心地がしたのは、明るさや色調の違ういくつもの黄色のうつくしさだけではなくて、筆の運びや絵具の重たさまで感じられそうな気配が画面から感じられたからかもしれない。
 ゴッホその人の、絵画に向かう情熱が、カンバスにそのまま残っている。

 美術館へ行く数日前、折しも原田マハさんの『たゆたえども沈まず』を読んでいた。

 ジャポニズムが隆盛を極める19世紀のパリで浮世絵を売り込む画商の林忠正とその部下の加納重吉は、同じく画廊を営むテオドルスと、その兄で画家の卵であるフィンセント・ファン・ゴッホに出会う。
 兄に対し複雑な思いを抱きながらも、その絵が認められてほしいと願うテオドルス。兄弟と親しくなるうち、その思いを同じくするようになる重吉。日本に強く憧れるフィンセントに対し、彼自身の日本を、芸術の理想郷を見つけなければならないと告げ、彼の「いちばん描きたかった」絵を待っている忠正。そしてフィンセントは、弟との衝突や、重吉、忠正との交流を経て、長い間苦しみながらも「いちばん描きたかったもの」であるセーヌ川を「星月夜」に仮託して描き出す。

 たゆたえども沈まず、というのは、セーヌの氾濫に幾度も悩まされながらも、そのたびに再建され、人々に愛され続けてきたパリの街をあらわしているという。

 パリは、いかなる苦境に追い込まれようと、たゆたいこそすれ、決して沈まない。まるで、セーヌの中心に浮かんでいるシテ島のように。

 フィンセントはそのセーヌを描きたかった。セーヌ川に架かるポン・ヌフの上で絵を描くことを禁じられ、パリに拒絶されたと感じてもなお。
 そうして、アルルの北東にあるサン=レミの村で見た糸杉に、彼は自分の姿を重ね、星と月の光に満ちた静謐な空に向かって立つ糸杉を描く。朝を待つ糸杉は画家自身であり、明るい夜空は、とどまることなく流れゆくセーヌ川。
 その画家もまた、たゆたいながらも沈まなかったからこそ、その絵にたどり着いたのかもしれなかった。

 原田マハさんの小説は巧みだ。小説に登場する重吉は架空の人物であるし、林忠正という画商は、ゴッホと同時代にパリにいたものの、両者の間に交流があったという記録はないらしい。実在の画家を主人公としながらこれほど大胆なフィクションを書き上げて、しかもそれが、ほんとうにそういうことがあったのかもしれないと錯覚するほどのリアリティを持っているというのに驚嘆させられる。ストーリーはフィクションであっても、そのベースには史実と、それから作品への深い洞察と真摯なまなざしがあるからなのだろうと思う。そのまなざしは作品に対してだけでなく、画家自身にも注がれている。作品にあらわれた画家その人、その魂に。

 これは私個人の話だけれど、印象派やその後の画家たちの作品を見ていると、その明るい色づかいや、日常の風景のようなあたたかみのある題材にもかかわらず、なぜかどうしようもなく切なく寂しくなってしまうことがある。これはどういうことだろうと不思議に思っていた。たとえば輪郭線が描かれていないことによる画面全体のやわらかさのせいだろうかとか、色調のやさしさがそう思わせるのかなどと考えもした。
 そんな効果もまったくないわけではないとは思うが、もうひとつ別の要因は、じぶんの目に映るもの、感じるものをそのままに表現しようとして、時には世の中に受け入れられずに苦戦しながらも描きたいものを追い求めてきた画家その人の魂が、作品に強く息づいているからだという気がしている。たとえば白内障を患ったモネが、じぶんに見える色、光を必死で写し取ったかのような絵だとか、子どものように大胆な筆致で悠然とした山脈を描いたセザンヌの絵だとか。
 もちろんそれ以前の絵画にだって、画家の意志や個性はあるのだけれど、こと印象派以降の絵画に心惹かれるのは、単に作風のせいだけではなくて、そこに息づく切実さや熱によってであるのかもしれない。

 原田マハさんの紡ぐ物語は、そういう画家の魂を、時に架空の人物を登場させることで引き寄せ、より深く見つめようとする。

 新しい時代へと向かう流れのさなかにあったパリで、ゴッホは認められず、それでもなおじぶんの描きたいものを失わずに立ち続けた。
 物語は事実ではないが、ある意味、根底的なところでは、ほんとうのことであるかもしれない。

 ひまわりの黄色が燃えているように見えたのは、そういうことだろう。

#読書の秋2020 #たゆたえども沈まず

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