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2021.12.24

 今年も暮れだな、と淡々と思うのと同時に、冬至を過ぎてこれからは1日ごとに昼が長くなっていくことに少しほっとしたりもしている。1年が巡ったなと実感する。

 季節の移り変わりを思う時、聴きたくなるのはフジファブリックの音楽だ。「桜の季節」に始まり「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」と続く通称「四季盤」は、フジファブリックの音楽の叙情性を象徴するような作品だが、彼らには1曲の中で四季が巡る歌もある。

「MUSIC」という、あまりにもストレートなタイトルのついたその曲を、私は冬の朝の、ぴんと音がしそうに冷たい空気の中で聴きたくなる。

 いつだったか忘れたが子どもの頃、普段あまり雪の降らない地元で、年末に雪が降ったことがあったような気がする。ぼんやりとしか覚えていないので記憶違いかもしれない。
 ただなんとなく、歩道に雪が残っている中を、近所の小さな神社まで歩いてお参りに行ったという印象と、その時の空気の冷たさと、雪にちらちら反射する陽光が眩しかったことだけが残っていて、「MUSIC」を聴くとそれが思い起こされる。

 それは不思議な感覚でもある。現在とか過去とか未来とかいった時間の流れから、その瞬間だけなんとなく抜け落ちているような、もしくはそれらのあわいにあるような。そもそもが本当だったのかどうかわからない、いい加減な記憶であるせいかもしれない。何か虚しく、でもすがすがしく澄んだ空気の中にいる。

 私の思う「MUSIC」という曲自体の印象も、その記憶に近い。四季を歌っているけれども四季盤のそれとは違っていて、それぞれの季節のイメージはずっと断片的でさらりと歌われている。舞い散った花びら、りんご飴、枯葉、雪が止んだ後の空気。その瞬間の光だとか温度、匂いなんかはよくわかるのにどことなく現実感がない。そうして最後にほんの一言だけ歌われる冬の空気が何よりも鋭く、鮮やかに残る。

君を見つけて 君と二人
遊び半分で 君を通せんぼ
冬になったって 雪が止んじゃえば
澄んだ空気が僕を 包み込む

MUSIC/フジファブリック

 新型コロナウイルスの感染が広がる少し前、2020年の年明けに、フジファブリックの志村さんの出身地である富士吉田を訪れた。

 それ以前にも行ったことはあったものの、その時はやっぱり寒くて、ぴんと音のしそうな空気で、それこそ「MUSIC」でいうところの「澄んだ空気」という表現がぴったりくる天気だった……と記憶しているのだが、果たして本当にそうだったのかは自信がない。晴れていて寒かったというのは確かだと思うけれど。

 忠霊塔越しに富士山を眺めたり、街を歩いてふらっと喫茶店に寄ったり、そこで「お年賀に」と甘酒の缶をいただいたりした。素敵な街だと行くたびに思う。
 その街を歩きながら私はまた「MUSIC」の「澄んだ空気」を思い浮かべている。

 富士吉田の街のあちらこちらで志村さんの曲を連想したり、この街が志村さんの音楽にもたらしたものに思いを巡らしたりすることもあったが、それは曲のイメージを更新するというのとは違っていた。極めて具体的な富士吉田という現実の街の光景を目にして、その空気を体感していてもなお、私にとって「MUSIC」という曲の抽象性、不思議な非現実感がなくなるものではなかった。

 フジファブリックの音楽を評する言葉としてよく「普遍性」「普遍的」ということが言われる。思うに、「MUSIC」はその極致なのかもしれない、などとわかったようなわからないようなことを考えている。
 それはくっきりと鮮やかでうつくしいのに、同時にどことなくかなしい。

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