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読書漫筆:吉田篤弘『なにごともなく、晴天。』

2024年も明けて1週間が経ちました。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。


仕事始めの日、帰りしなに立ち寄った書店で吉野篤弘さんの『なにごともなく、晴天。』(中公文庫)を見つけて、そうだ、今年の1冊目はこれにしよう、と思った。

以前、同じく吉田篤弘さんの『それからはスープのことばかり考えて暮らした』を読んで、その作品に出てくる人たちの人柄の良さ、善性、彼らの過ごす淡々として穏やかな日々、その中でふと訪れる特別な瞬間、を大変愛しく感じたのを覚えている。『なにごともなく、晴天。』も、そんな気分にさせてくれそうな予感がした。

その予感の通りというか、『なにごともなく、晴天。』も、穏やかに凪いだ心持ちにさせてくれる作品だった。
出てくる人々も優しく、それぞれ不器用だったりぼんやりしたところがあったり、逆にそれなりにずるいところがあったりしつつ、基本的には善い人たちで、高架下の商店街で淡々とした日々を送っている。

彼ら(語り手で主人公の美子、同じ商店街で店を営むサキ、純喫茶<ベーコン>の店主の姉さん、などなど)のように、日常的にお互いに会って、くだらない話から打ち明け話まであけすけにできる関係性というのは、私自身にとっては実現性が乏しい分フィクショナルでファンタジックなものに思えてしまうところもあるのだが、羨ましくもある。

線路の高架下という、主人公曰く「宙ぶらりんな感覚」の残る場所で、決して賑わってはいない商店街の中で、物語のほとんどが進んでいく。実在の地名も出てくるが、ストーリー全体はリアリティのあるものではない、と思う。

が、その中で、例えば主人公が自分で入れたまずいコーヒーを飲む時間とか、純喫茶<ベーコン>の姉さんが焼いたベーコンを食べる瞬間とか、高架下の部屋で、頭上で保線作業をする特殊電車に耳を澄ます時間とか、そういう感情の動きは、やはり読んでいて嬉しくなってしまうのだった。

ところで、この作品のタイトルにもある「なにごともなく」には、留保がついている。

なにごともなく平穏無事な日々というものは、多くの人たちの「じつはね」で成り立っている。
この世の平穏は、多くの人たちのやせ我慢と隠しごとと沈黙で出来ているのだ。

吉野篤弘『なにごともなく、晴天。』

なにごともない、というのは真実ではない。
その前提がこの作品を、もう一歩現実の方に引き寄せる。

つまりは平穏無事に見える日々の中で、大小さまざまの出来事を経験して、悲喜こもごもの思いを抱えて多くの人たちが生きているという、言ってしまえば当たり前のことなのだ。

けれどもそれが織り込まれることで、この作品は翻って、悲しみや憤りやそのほか様々な隠しごとを抱えて生きている多くの人々のためにこそ、平穏な日々を祈るものとなるように思ったのだった。


年が明けてから、国内でもショッキングな出来事が続けざまに起きた。
海外に目を転じても悲惨なニュースが後を絶たない。

正直なところ、自分が被災したわけでもないのにここ数日無力感に襲われていた気がする。『なにごともなく、晴天。』を読み終えて、ようやく自分にも喝が入った。

一日も早く平穏な日々が戻ることを(戻る、という言い方は適切ではないのかもしれないが)切に願いつつ、微力でも一市民としてできることをしていこうと思う。


画像は以前、七尾を観光した時に撮った写真です。
また行ける日がくるのを待っています。

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