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私に詩は届かないけれど

名古屋駅の中にあるひつまぶしの店で父親に会った。もう随分前のことで、7,8年前まで記憶を遡る必要がある。それが確か最後に会った父親の姿だった。

こう書くと亡くなってしまったようだけれど、おそらくまだ生きている。名古屋で会った数ヶ月ののちに両親が離婚をして、単純に会いにくくなっただけだ。会いにくくなっただけで、別に誰に会うことを禁じられているわけでもないけれど、以来一度も会っていない。もはや連絡先も、互いの住所さえわからない。

だから私がすでに大学院を修了したことや何度か転職をしていて、東京にいることさえ明示的には知らないはずだ。そのことを親不孝だとは思う。

最後に名古屋で何を話したのか、私はあまり覚えていない。彼は一体どんな服を着ていて、靴を履いていて、どういった経緯で会うことになったのか、そのひとつひとつ思い返してみても、何一つ明確なものが浮かんでくることはない。顔も声も、全てが曖昧で、寄って立つものがどれだけすくい上げようと見つかることはない。

祖母や母に対する、あまり口にできないような言葉について、曖昧に頷いたり聞き流していたことだけ、ぼんやりと記憶にある。その時食べていたはずのものの味も全く印象になくて、食事が終わって、お店の前で解散したときに安堵をしたこともまた、覚えている。

結果としてそれが父と会った最後となって、以降、音信不通となっている。私がライフイベントを報告していないように、父からもまた離婚の連絡をもらうことはなかったし、風の噂で再婚をしたという話も聞いたけれど、それだって本当のことかわからない。

父について知っていることは限りなく少ない。名前と、それと誕生日、ギターが少しだけ弾けること、ロックが好きなこと、それから3人兄弟の末っ子であること、欠かさず夕食時にはビールを飲んでいたこと。父の両親(つまり私の祖父祖母)も円満な家庭ではなかったらしいということ。

好きな食べ物が何で、何を学んできて、何を信じて、何を愛して、好きな作家は誰で、何を恐れて生きていたのか、何を願っているのか、どのように在りたいのか、全部わからないし、推測さえも難しい。

父は幸せだったのだろうかと、思う時がある。もし幸せではなかったとしたら―というより「もし幸せではなかったとしたら」という仮定が当たり前のように私の頭に浮かぶのだから―、それの少なくない割合を私が占めてしまっているのだろうなと思う。

幼少時から今に至るまでまともに会話をしたことはなかった。会話をするときは要所要所、例えばテスト結果を見せるときだとか、進学先が決まったときだとか、それくらいなものだった。父が私にそうであったように、私もまた父に対して、自分が何を考えているのか、学校でどのように過ごしているのか、家族についてどう思っているのか、話すことはなかった。

思えば、父も両親が不和であり、そして母も両親が離婚していて、そしてそんな中で私は育ち、それぞれが家族の在り方が歪であった。父は私の存在を恐れていたのかもしれないと今になって思う。それぞれが十全な愛情がない中で育ち、自分が愛情を注ぐ側になったときに、過度になるあるいは恐れることは想像に難くない。

これからも私の知らないところで父の生涯は進んでいくし、私の生涯も父の知るところにはならないだろう。そのことを少しばかり寂しく思う。父にもきっと同じような気持ちはあるのだろうかと、不確かな想像をする。

離婚の件についても、それまでの振る舞いついても、父にも母にも、湧き上がるような怒りはまったくない。双方、そちらのほうが精神が安定するのであれば、その選択こそが妥当であると心から思っている。これについても残念だな、とは思うけれど。もう少し家族に対して役割を期待し、押し付けていたならば違っていたのかもしれない。

なんだっけ、ああ、そう、父のことだ。

そのような背景、経緯があって、現在はすれ違うことのない他人のように暮らしているのだけれど、やっぱりふと思い出すことがあって、それを書いてみれば、いささかは心持ちが楽になるのではと思ったが、全然そんなことはなかった。どころかディティールがあまりにも思い出せず愕然とした。

だからといって、これから関係修復に奮起することもないのだろう。修復というよりも、素地がないのだから、殆どゼロからの構築ということになる。趣味も思考も年齢も大きく違う他人(他人ではないのだけれど)と、関係性を築くことができる気がしない。

私は父に何も望まない、だからどうか父も、私に何も望まないでと、そんな勝手なことを思う。

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