植物園

綯い交ぜになった植物の香りの中を歩いた。虫たちは勝手に暮らしていた。木のウロに触れた。葉が映す光を撫でながら歩いた。

人間の営みの中で最も有用で尊いものの一つに類似点の認識とそれによる分類があるのだと思う。何年も何百年も、幾人もの人間がそれに関わり、見つけ出し、名付け、伝えていく。

なぜ分類が必要なんだろう、とこの問いにとっさに答えられる人は少ないような気がしている。私も、答えられない。理解を促進するため、未知への不安を軽減するため。そんなところだろうか。ただ、私達は生得的に分類することを宿命付けられていると思う。

植物園に行く前日、人が人を分類する話を聞き流していた。学術的な、再現性をもった話ではなく、主観と感覚によるそれは、そしてそれを口にし、伝播させようという意思を持った言葉を、私は聞きたくなくて、だからもう何も覚えていなけれど。ただ、それもまた一つの分類法には違いない。リンネによって体系付けられた分類学のそれではない分類は、人類の生活に根付いている。

ある部族では生物を「考えるもの」「棘のあるもの」「人間を恐れるもの」などと分類するらしい。それと同じように「仕事ができない人」「仕事ができる人」「家事が好きな人」「よく笑う人」など直感によって分類することもまた営みではあるのだろう。

そんなことを植物園を歩きながら、整然とした分類を前に考えていたりした。誰かが私を分類するとしてどのカテゴリに入るのだろう。誰のどういう価値観でもってそこに置き場所を作ってもらうのだろう。あるいは、私はどのように分類されてくて、どこに居場所を作りたいのだろう。

そう考えたときに、今いるこの場所が、その場所への途中にあるのか確かめる手触りが落ち着かなくて、さわさわと所在なく何度も手馴染みの良い場所を探し続けている。



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