あなたは今この瞬間も頑張っている

「苦労している人は、偉いし、人に認められる」


この概念に、ずっと縛られていた。


「可愛い子には旅させろ」
「苦労は買ってでもしろ」


昭和生まれの私は、イヤと言うほどこんな言葉を耳にしてきた。

だから当たり前に、苦労している人は偉いし、人として尊敬できる凄い人で、自分もそんな苦労を重ねた立派な人間にならなきゃいけない、と思って生きてきた。


「疑う」と言う発想も思い浮かばないくらい、私には当たり前の人生論だった。



でもある時、私という人間のこれまでの生き辛さや人格形成において、この概念が大きな影響を及ぼしていた事、そして自分は人より劣っていると感じて生きている原因の根源がここにあったという事実に、ハッと気付かされた。



実は先週、以前の職場でずっと一緒に働いていた友人が病気で突然他界してしまった。

現実味がなさ過ぎるのと、認める怖さも相まって、彼女との写真は実はまだ一度も見返せていない。



あまり友達を作れない私でも、以前の職場内では最も話をし、仕事に対するスタンスや価値観も似ていて、色んなトラブルも阿吽の呼吸で乗り越えて来た、一番食事にも行った友人だった。


彼女は自分のことはあまり話したがらない子だったけど、人が大好きで、人の世話や心配ばかりして、面倒見も良く仕事もめちゃくちゃ出来て、上司部下みんなに愛され、頼りにされていた。

人が足りなくて困っている部署があればどこへでも手伝いに行き、太陽のような明るさで現場を動かし、誰よりも活躍して帰って来てしまう、そんなスーパーウーマンな子だった。


時折お酒の力を借りて話してくれる彼女の人生は、ほんの一部を聞いただけでも、私が経験して来たのとは全く違う、波瀾万丈なものだった。


見た目もとても派手だったけど、大声で笑いながら、奇抜なヘアスタイルやファッションに身を包む彼女の姿を見る度、彼女らしいな〜と笑顔になってしまう反面、それが彼女の鎧のようにも見えていた。


彼女は色んな事を自分の力で乗り越えて来たとても強い子だったけど、とても寂しがりだった。



私の事もいつも心配してくれて、助けてくれたし、一緒にくだらない事を言って大笑いしながら仕事をする時間はとても楽しかった。


だけど私は、無意識のうちに、彼女との間に薄い壁を築いてずっと過ごしていた事をふと感じた。




私には歳の離れた姉がいて、姉は頭も良くて優しくてしっかり者で、9歳の時日本に帰って来た帰国子女だったから英語もペラペラ。
でも実は、現地での生活環境の影響で日本語が全くわからず、帰国後の学生生活では本当に苦労をしていた。


私は帰国当時まだ3歳で、同様に日本語は全くわからなかったけど、ほんの数ヶ月で日本語を覚え始め、言葉で苦労した記憶は全く残っていない。


親戚中でも私は一番小さくて、姉も含めみんなが私のケアをしてくれる、そんな立場で育った。


これが「苦労知らず」という概念の始まりだった。



実際は、今の私という価値観で思い返してみれば、特に学生生活では「よくやっていたな、、、」と思うしんどい事もたくさんあって、私、実は結構必死に頑張って来てたんじゃん、、、と自分を褒めてあげたいくらいだけど、少し前までは「私は苦労知らずだから、人間としての器が全然無いな、、、」という感覚だった。


学生生活でのトラブルも、「苦労知らずだから辛いだけ。こんな事、相談する話じゃない。」と思って、考えてみれば親に伝えた事も無かった。

だからだいぶ大人になって親にその当時の話をした時に「え??そんな事あったの??」と驚かれたりもしていた。



こう思ってしまった一番の原因、
それは、ずっとかけられ続けていた親からのこの言葉。


「あなたは何の苦労もしていないから」。


もう本当に、幼少期から大人になるまで耳にタコが出来るほど、事あるごとに言われ続けた。


ぶっちゃけ洗脳ってこうやって起きるんだなと今では感じるし、この言葉を言われている時の光景と、その時の何とも言えない嫌な気持ちは、たぶん一生忘れないと思う。



だから、自分が何かを伝えようと思ったとしても、それは「苦労していない人間の言葉」だから、価値も無いし、浅はかだし、語る資格も無いし、人に納得なんてしてもらえないと、心の奥で疑いもなく決めつけて生活していた。



前職の友人の話に戻ると、彼女という存在はそんな私にとっては、

「苦労もたくさんして来ていて、器も大きくて、だから人に語る資格もあって、みんなからも頼りにされて、凄い人」。


苦労していない私と話していても、本当は「あなたは苦労もなく生きてこれてるから、わからないと思うけど」って、どこかで思われているんじゃないかって一人で妄想して、それを感じ取る瞬間が来るのを恐れて、自分で勝手に壁を作ってしまっていたんだろうなって思った。


でも、、、
それはきっと、私が勝手に創り出した虚像だったんだと思う。


彼女はそんな事、微塵も感じていなかっただろうな、と。



私にとって「苦労」は、その人が頑張ってきた証、勲章みたいに思っていたから、他人から見てその人に起きた事象が大きければ大きいほど、大きな勲章を得られる=頑張って来た器のある凄い人、という感覚だった。


だけど、本当は違った。


他人目線で判断する事象の大きさなんて何の意味も無かった。


本人にとってどれほど辛かったか、どれほど心で葛藤して、もがいて、乗り越えてきたか、その心の葛藤の大きさこそが、その人の経験と器、人格を作る。


彼女との時間を思い返しながら、自分についても改めて考えていた時、そういえばこんな私でも、人から相談を受ける事も何度となくあったし、その時にかけた私の言葉に救われたと言われた事も、よく考えたら一度や二度じゃなかった。


私にも、私の経験した人生からでしか語れない言葉がきっとあるんだと、初めて心から思った。



みんなみんな、自分の世界で起きることを、必死に頑張って生きている。

もし「この人の器は大きくないな」って感じる人がいたとしたら、その人はきっと辛い時に自分と人とを比べて、勝手に「自分の方が苦労している」って、乗り越える辛さと向き合うことから逃げて、被害妄想に時間を費やしていたんじゃないかと思う。


自分の世界を自分自身で向き合って必死に生きている人は、それだけでただただみんな素晴らしい。



人は自分以外の気持ちなんて、わからない。

真意なんてわかる訳ない。

歩み寄れても、本当の意味で理解なんてし合えない。


でもだからこそ、自分の知らない所で、自分にはわからない感情と闘って来ているかもしれない自分以外の人を、一人一人無条件にリスペクトするべきだと思うし、自分の人生を誰かと比べて卑下する必要も全く無いって思う。


毎分、毎秒、みんなその時その瞬間にある現実と感情に向き合って、実は必死に頑張っている。


自分では気付けていないかもしれないけど、あなたは今すごく頑張っています。

自分のこと、もっと誇ろう。




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