自分の思いを言語化すると、おのずと導かれる
noteに投稿したいことは色々ありながら、どんな風に書きたいのか、なんだか漠然とし過ぎていてしばらく悩んでいた。
なぜ自分がnoteを始めようと思ったのか、
そういえば、自分の中ではっきりと言語化していなかった。
noteには色んな記事を書いている方がいて、読者として読むだけでとても楽しい。
読んでいると、
「言葉の選び方が上手だな〜」とか、
「まるで横で話してくれているかのように自然体で、すっと言葉が入ってくるな〜」とか、
「短い記事なのに、グッと来る、、、」とか、
心動かされる記事がたくさんあって、あっという間に時間が過ぎてしまう。
なんでたまたま読んだだけの記事に心が動かされるんだろう、と段々気になり始めて観察してみた。
そこで感じたこと。
おそらくそういう方たちに共通して言えるのは、
伝えたい真の思い、価値観、軸が明確になっているに違いないということ。
そしてそれを自分の中でしっかりと言語化できているんじゃないか。
なるほど、、、これか、私に足りなかったのは。
そりゃ、しっくりくる言葉や文章が浮かんで来ないはずだなぁと、ちょっと反省した。
そしてこの数ヶ月、自分の心の声はなるべく聞こうと決め、
脳内に浮かぶ言葉をいつもより聞き流さないようにしてみた。
気になった言葉があれば、「なぜそう感じたのか」を自分で深掘りしながら、少しずつ向き合ってみた。
そうやって心の声を文字にして書きまくった結果、
ようやく、一つの答え、伝えたかった思いの軸を言語化することができた。
私が今一番伝えたいこと、
そして何よりも願うこと、
それは、
「人それぞれがお互いをもっと認め合える社会を作っていきたい」
ということ。
ポジティブな言葉にしたかったからこう言語化したけれど、
平たく言えば、誰かを簡単に「批判」するという概念の無い社会になって欲しいということ。
人と人が関わり合いながら生きるこの世の中で、
「批判」ほど不要なものは、私は無いと思っている。
「批判」からポジティブなものは何も生まれない。
もし「改善」を生み出したいと思ったなら、
「批判」的な言葉は絶対に出て来ない。
「批判」は新たな「批判」を生むし、
人ってみんな平等に尊く、優劣なんて本来無いはずのに、
なぜか「強者」と「弱者」という構図をも生み出してしまう。
そこに存在するエネルギーは、もはやネガティブでしかない。
下がる一方。
その上「自分を守る」という、人間本来持つ性質から、人は「強者」に付きたがる。
そうやって、ネガティブなエネルギーをどんどん増殖させていってしまう。
自分の思いに向き合っていたら、昔のことを少し思い出した。
私は父の転勤で海外で生まれ、3歳の頃日本へ戻って来た。
記憶にはないけれど、生活環境の影響もあって帰国時には英語しか話せなかった。
そこから幼児ならではの驚異的な吸収力で、帰国後3ヶ月を過ぎる頃には
英語よりも日本語を多く口にするようになっていた。
そして数年後には英語をきれいさっぱり忘れた。
それでも文化の違いや日本語力の低さから日本に馴染むのに苦労し、
帰国後少しして入園した幼稚園では、いじめっ子に目をつけられ、
小学校に上がってからも、日本特有の集団生活にはちっとも馴染めなかった。
帰りに下駄箱へ行くと靴が無い、なんてこともしょっちゅうだった。
とはいえ、たいてい私の靴は高学年の下駄箱で見つかるパターンだったので、徐々に秒で見つけられるようになり、普通の学校生活よりそんなことには慣れてしまっていた。
この頃のことって薄っすらしか思い出せないけれど、
その数少ない記憶の中でも特に鮮明に覚えているのは、
「どうやったら周りのみんなと同じ意見になれるんだろう?」
そんな思いを抱えて日々過ごしていた、ということだった。
多数決を取るシーンでも、周りの様子を伺って、手を挙げている人が一人でも多い方を選んで、ひっそりと手を挙げていた。
私は自然と「強者」グループの方を、いつも選んでいた。
それこそが最善だと思っていたし、
自分自身の意見なんて、何も無かった。
私は自分に向けられる「批判」が怖くて、人に怯えながら生きて来た。
「批判」は、相手を認めることなく否定をするということ。
それは私にとって、存在そのものを否定されるのと同じに感じていたから。
あなたの考えや生き方はみんなと違うから、あなたには価値が無い、と。
日々生活の中で人と関わっていると、必ず誰かが誰かを「批判」している姿を目にする。
だからどこへ行っても、自分が気を付けなければ、また自分は「批判」の対象にされると思っていた。
それを避けるためには、とにかく周りが嫌がらないように生きよう、と、自己防衛に必死だった。
私の頑張るべきことは、空気をしっかり読んで、余計な波風は立てず、目の前のことをみんなと同じようにそつなくこなせるように日々努力すること。
それが社会で学ぶべきスキルなんだと思っていた。
それが大人のコミニュケーション力だとも思っていた。
そんな風に生活をしていった結果、その努力が報われたかのように会社に評価されたり、上司に信頼されたりと、小さな達成感を感じられることも多くなっていった。
だけど、、、
なんか満たされない、、、。
頑張っているのに、評価されたのに、
心から喜べない。
何かがズレているような感覚。
それがずっと抜けなかった。
この世に生を受けるというのはとてつもない奇跡。
そんな奇跡を経て生まれて来た「私」という人間の生き方は、
果たしてこれでいいのだろうか?
自分を認めて、自分の価値観を人に伝えて、
才能を輝かせながら生きることは、
本当に叶わないことなのだろうか?
そつない社会生活を送る技術が上がれば上がるほど、
自分の中の違和感がどんどん大きくなっていった。
じゃあそんな私が、今一番伝えたい思いがあるとしたら、
それって何なんだろうか?
自然にそんな疑問が湧いてきた。
その心の声を、私は真剣に聞いてみることにした。
過去の自分にできる限り真正面に素直に向き合ってみた。
すると、
自分が「批判」という言葉にこれ程までにとらわれ、
そして今の世の中にはびこる「批判」の嵐を見る度に、
こんなにも嫌な思いを抱いていたのかということに、改めて気がついた。
もっと相手の価値観を認めてから、自分の意見を言えばいいのに、
どうしてただ「批判」だけするんだろう。
人を批判するという概念の無い社会を作っていきたい、
それはつまり、
「人それぞれがお互いをもっと認め合える社会を作っていきたい」
きっとこれが、今私の心にある、一番強い思い。
伝えたいこと、伝わって欲しいこと、
つたない文章でも、まとまりなくても何でもいいから、
一歩でもその社会に近づくヒントになることを書いてみたいと思った。
偶然読んでくれた人の中で、たった一人でも何かを感じてくれる人がいれば、それは小さな一歩に繋がるって思うから。
それが、思いを言語化した私の目の前に現れた、今導かれている道のように思う。
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