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「伝えたい」という想いの強さに圧倒される 映画『えんとつ町のプペル』

えんとつ町のプペルを観た。

自分でも驚いたことに、泣いた

鑑賞前からストーリーは想像できたので泣くことはあるまいと思っていたが、鑑賞しながら自然と涙が流れた。
その理由のひとつが「伝えたい」という制作側の想いの強さに圧倒されたから。

その辺りのことを含め、「えんとつ町のプペル」の感想を綴っておきたいと思う。


1. 「出る杭」がそうでない人たちを味方につけるまで

絵本が原作だけあって、ストーリーは非常にわかりやすい。

ルビッチ少年が、バカにされても自分の信念を曲げず、ゴミ人間プペルという仲間を得て、弱さを克服しながら自分の夢を叶えるために邁進するお話だ。

ルビッチの成長物語でもあるこの前向きな作品は、鑑賞者を選ばない。
どの年代の人でも自分に重ね合わせて鑑賞することができる作品だ。
アニメ映画ゆえに子供向けと思われがちだが、むしろ、年齢を重ね社会の常識あれこれにがんじがらめになっている大人、あるいは成長することを忘れてしまった大人にこそ響く内容だと思う。


さて、物語について。

町の人々に変わり者と思われているルビッチや、異端のプペルの存在が象徴するのは、所謂「出る杭は打たれる」の「出る杭」みたいなものだ(本来の「出る杭は打たれる」の意味とはニュアンスはちょっと違うかもしれないけど)。

この映画では「出る杭」の生きづらさを描くと共に、なぜ「出る杭」は打たれてしまうのかがわかりやすく表現されている。

ここで面白いと思うのは、「出る杭は打たれる」傾向のあるこの国においては、「打たれる側」がマイノリティにも関わらず、鑑賞者の多くはこの「打たれる側」に共感することだ。

それには理由がある。
鍵は「(積極的に)打たない&(自分は)打たれないようにする人」の存在だ。
つまりは、「出る杭を打つ側」「打たれる側」の存在が全てではないということ。

「打たれる側」はその性質ゆえにマイノリティなのは間違いないが、「打つ側」がマジョリティというわけではない。
実際は打つ側でも打たれる側でもない人々こそが、この国におけるマジョリティなのではないかと思う。

「出る杭」になる勇気がない彼らは、ルビッチやプペルに羨望の眼差しを向けつつ、「自分だったらどうするだろう。どうしたいだろう」と考える。
そして自分の中に存在する、「出る杭(に憧れる自分)」「打たない&打たれないようにする自分」のギャップ、つまりは「なりたい自分」と「今の自分」の距離に思いを馳せ、それが劇中のルビッチと重なり心が揺さぶられる。

一般的に鑑賞者は主人公に感情移入をするが、それは主人公が共感するに値するキャラクターであることが前提だ。
そういう意味で、ルビッチとプペルは「出る杭」にも関わらず、鑑賞者の共感を勝ち得る魅力があった。だから「打たない&打たれないようにする人」の心を掴み共感を得ることができたのだ。

そして、マイノリティである「出る杭」の象徴ルビッチとプペルが、マジョリティである「打たない&打たれないようにする人」を味方にできたのは、この物語が伝えようとしているテーマのひとつでもある「情熱を持ち続け、伝え、それに共感する仲間を作ること」に成功しているからに他ならない。


さて、私がこの物語の良いと思うところは物語が提示するメッセージ、たとえば多様なものを受容する寛容な世界を望む姿であったり、夢を追いかける情熱が持つ力であったり、とにかく原作者の視線が前に、あるいは上に向いているところ。


ルビッチのように空を見上げ、自分の知らない世界を夢見る。
そこに到達できることを信じる。
そして、ワクワクする。

こういう姿勢を忘れたくないなと思う。
心から。


2. 伝えたいことを伝えるために必要なこと

西野亮廣さん(制作総指揮・原作・脚本)は、「えんとつ町プペル」は自分の体験を元にした物語だあることを公言している。

クラウドファウンディング やオンラインサロンという言葉がまだ聞きなれなかった頃、この分野に早期参入した西野さんは世間からひどく叩かれた経験を持つ。

だからこそ、挑戦している人、または叩かれることを恐れて挑戦を躊躇している人に、この作品を通して伝えたいことがあるのだと思う。
そして、それがしっかりと伝わっているがこの映画だ。
とにかく伝えたいという想いの強さが半端ない。
それに圧倒され思わず涙が出た。



ところで、映画にしろ本にしろ表現行為をするということは伝えたいことがあるからに他ならない。

しかし、それが伝える側の意図通りに伝わるとは限らない。
受け手の考え方や趣味は多種多様で、もちろんそうあるべきだと思うし、それは仕方がないことだ。

この映画にしても、受け取り方は人それぞれだと思う。
でも、ひとつだけ言えることは「えんとつ町のプペル」は、伝える側の「伝えたいという意思」が確実に受けてに伝わっているということ。
理由は極めて単純。伝えたいことが明確だから。そしてそれを惜しみなく作品中に投入しているから。それも直球で。

こういうやり方は、ともするとくどいと思われてしまう可能性だってある。が、そんなことはものともせず「伝えること」に全力投球をしているように感じる。
結果として(少なくとも私は)心を揺さぶられた。


何はともあれ「えんとつ町のプペル」は原作者の経験に基づく強い思いが全面に押し出された作品だ。

作品はもとより、この映画を成功させるために西野さんが日々営業(ご本人はドブ板営業とでおっしゃっていた)をする様子は、諦めずに前に進むルビッチとシンクロ的で、この作品への想いの強さとして我々に届く。

これによって応援する人も増え、つまるところ「伝えたいという意思」が伝わることに大きく貢献していると感じる。





さて、人はそれぞれ自分の人生の主人公であり、誰しもが自分だけの物語を持っている。

生きていく中で様々な経験をし、嬉しいこと、楽しいこともあれば、悲しいこと、悔しいことだってある。そして、それらの経験から何かを学ぶ。

その学びの中から「伝えたい何か」に出会うことは、とても意味があることだと思う。

それは自分の人生の軸となる何かを手にすることと同義であり、「自分」という物語のベースになるからだ。

そして、その「伝えたいこと」を伝えるために必要なことは、「伝えたいという意思」と「伝えたいことは何か」を明確に表現すること。
その努力を惜しんではいけない。
この映画からそのことを学んだ。



3. えんとつ町プペルの楽しみ方

最後に「えんとつ町プペル」をどう楽しんだかを簡単に。

あまり情報を入れずに観にいったので、登場人物の声が誰なのか知らずに鑑賞した。

まず第一に、ゴミ人間プペルの声や話し方がすごく物語にマッチしていると感じた。おかげで違和感なく物語に入り込むことができた。

それにしてもこのプペルの声、どこかで聞いたことのある声なのだけど鑑賞中には誰だかわからず。後から調べて俳優の窪田正孝さんだと知って驚いた。
役があまりに彼のイメージとはかけ離れていたので意外に感じたが、こういう驚きはちょっと嬉しい。たとえば、ソフトバンクのCMのお父さん(犬)の声が北大路欣也さんだったと知ったときのポジティブな驚きと似てるかんじ(自分比)。

そして、もう一人特徴的な声の主は鉱山泥棒のスコップ。
スコップだけはすぐにオリラジの藤森さんだとわかったけれど、こちらはキャラクターとキャストがマッチしていて当たり役。滑舌が良さが気持ちヨイ。

さて、たまに聴いてるvoicyで西野さんが言っていた、「劇場の前の方の席で観ると良い」というアドバイスを参考に前から3列目で鑑賞した。
これはその通りで、アニメの世界に自分が入り込んだような感覚を味わえた。
特に物語の序盤はカメラワーク(というのかな?アニメの場合も)が動的&スピート感があり、遊園地のアトラクションを味わっているような感じだった。

体験型映画とでもいうか。



こんなご時世なので人のいない時間帯を狙って、つまりは早起きをして朝一の回で鑑賞したこの映画、アニメの世界を楽しんだだけでなく、伝えたいという強い想いに圧倒された。
そして心揺さぶられた結果、涙まで。

良い意味で予想を裏切られた作品だった。


トップ画像:えんとつ町のプペル公式ページより引用
https://poupelle.com/download.php




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