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韓国ドラマ『アンナ』の考察、そしてディレクターズカット版(全8話)とCoupangPlay版(全6話)を比べてみた

韓国ドラマ『アンナ』を完走。

AmazonPrimeではディレクターズカット版(全8話)とCoupangPlay版(全6話)が配信中。

私はディレクターズカット版(全8話)→ CoupangPlay版(全6話)の順でどちらも完走したけど、完全版であるディレクターズカット版の方が断然よかった。

ここでは、ディレクターズカット版の完走&考察に加え、ディレクターズカット版(全8話)と CoupangPlay版(全6話)違いについて、脚本の観点から考察してみたい。


1.「信じればそれが真実」ーアンナ(イ・ユミ)の哀しくも逞しき人生

幼い頃から賢く、虚栄心が強かったイ・ユミ。
小さな嘘がきかっけで、彼女の人生は思いもよらない方向に動き出す。
誰もが心の奥底に秘めている「他者よりも優位でいたい」という欲望に絡め取られていくのだ。

人生がうまくいかないユミは、雇い主であるイ・ヒョンジュのもう一つの名前「アンナ」と彼女の人生を盗み、改名までして偽りの人生を生きることを選ぶ。
アンナとなったユミは、美しくミステリアス。いとも簡単に周囲の人々を惹きつけていくのだ。

しかし、悲しいことにそれは虚構。
ひとつ嘘をつけば、それを隠すためにまた別の嘘をつかねばならない。
嘘を重ねるうちに、アンナ自身、何が嘘で何が本当なのか、わからなくなってしまったのではないだろうか。「信じればそれが真実」という、都合の良い考えを是とし、欲望のままに突き進む。

それにしても「沈黙は金」はよく言ったもの。
アンナの場合はまさにそれで、多くを語らず、欲しいものを着実に手に入れる。容姿の美しさや謙虚な態度が人々の信用を勝ち取るのに一役買い、彼女はついに教授と呼ばれまで昇り詰める。
この状況、アンナは内心笑いが止まらなかったのでは?いつかバレるかもという恐れを抱きながらも、スリルと高揚感を味わったのではないだろうか。

しかし、アンナが人に羨まれるものを手に入れる度に、彼女の虚構は肥大していくことになる。
そして破滅の時はジリジリと迫っていた。

そのきっかけとなったのがアンナの夫。
政治家を志す野心家のチェ・ジフンの欲望と、アンナが手に入れた虚構(欲望の集大成)が交わった時、彼らがまとったメッキが剥がれていく。
素になった彼らの姿はとても滑稽。そして哀れだ。


ところで、アンナは生まれついての嘘つきだったのだろうか。
人一倍虚栄心があったことは間違いない。
貧しくても娘に尽くす、心ある両親に育てられながらも、彼女は自分の持つ可能性に執着した。

それ自体は悪いことではないけれど、アンナの場合めぐり合わせが悪かった。
高校時代に付き合った大人(教師)は保身のためにアンナを裏切った。
そして、ヒョンジュ側の世界に生きる「傲慢な人々」への羨望、嫉妬、そして怒りが彼女を歪ませたとも言える。

しかし、嘘を重ねて手に入れたステータスやお金、そして人々からの賞賛、これらを手にして嬉しかったのはその瞬間だけだったのではないか。
それとも、その瞬間を刹那に欲していたのだろうか。


とにかく、物語を通してアンナは全く幸せそうではない。

耐え抜けば、機会は必ず来る。いつもそうだった


この覚悟のような一言は、彼女の苦しい人生を象徴していると思う。
獲物を狙い撃ちする狼のように、一人ひっそりとチャンスを待ち続けたアンナ。
彼女が本当に到達したかった場所は何処なのだろう。

ラストでは雪深い田舎で人知れず暮らすアンナが描かれる。
哀しくもあり、憐れでもあり、しかし逞しい。

それが彼女の生き方なのだ。


2.バレエ曲『エスメラルダ』が刺さる、アンナの行き着いた場所、そしてアイロニー

ところで、劇中に流れるバレエ曲『エスメラルダ』がいつまでも耳に残って離れない。

『エスメラルダ』は、主人公エスメラルダが3人の男に愛されながらも自分が愛する相手とは結ばれないという悲しい恋の物語。
ふと思ったけど、エスメラルダが流されるままに辿り着いた場所と、アンナが嘘で塗り固め辿り着いた場所は、ある意味似ているのかもしれない。

アンナの場合、一度はまともに生きていこうと決意するも、社会の底辺から這い出るため、自分を見下す連中を見返すため、そして何より自分の欲望を満たすために、大胆な嘘をつき偽りの人生を歩み始める。

「バレたら終わり」

こんな危険なゲームに賭けたところで幸せになれるはずもなく。
それでも始めてしまったものはやめられない。人から羨まれることを切望していたアンナだが、結局全てを失った。


でも、最後まで彼女を見捨てなかった人たちがいた。

それは先輩のハン・ジウォンと母親。

正義感にあふれ純粋なジウォンは、アンナの人生の中で唯一汚してはいけない聖域だったはず。実際のところ、アンナはジウォンに対して思いやりを見せている。
その一方で、経歴偽証を隠して予備校講師の口を紹介させたり、夫ジフンを追い落とすために、ジウォンを利用したのも事実。

ちなみに、物語におけるジウォンの役割とはアンナとの対比。
ジウォンが日の当たる場所で堂々と人生を生きるのに対し、アンナは常に何かを隠し影ある人生を生きている。
ジウォンの周りには善良な人が集まる一方で、アンナは自己中心的で権力指向の夫に絡め取られる。
ジウォンとアンナ、二人は人生のある一時接点があったけど、基本的に別の世界で生きている。この対比、つまりはジウォンの存在こそが、アンナの闇をくっきりと浮き立たせるのだ。


そしてアンナの母。
母が彼女を守った(それが唯一、この物語の救いのように感じている)。

アンナの正体を知ったジフンが、彼女を療養所に入れお払い箱にしようとする寸前に起きた事故の場面がそれ。
この事故によって命拾いしたアンナだが、彼女を救ったのは突然目の間に飛び出してきた鹿であり、その鹿が母の象徴なのだ。

かつて、アンナの母は夢を見た。
鹿になった母が、悲しげに泣いているアンナを見つめているという夢だ。
この場面が事故で再現されており、アンナは鹿(母)に見守られ、地獄から抜け出したことを暗示しいてる。


さて、夫を殺し、自由になったアンナのその後の人生は、果たして穏やかだったのだろうか。

全てを捨て、雪深い外国で過ごす彼女の顔には気負いはない。
ただのイ・ユミとして生きている。
でも、彼女を称賛する人はいない。そこには孤独があるだけ。


本当に望んていたかどうかは 手に入れてみるとわかる


そう言ったアンナは、それまでの人生で手に入れたもの、あるは失ったものに対して何を思うのだろう。

そして「大陸横断をした」と隣人に告げるあたり、アンナの虚栄心は健在だ。
彼女は未だ、虚構の世界に生きているのだ。



ところで、アンナにとって嘘とは何だったのか。


人は 自分の日記帳でも 嘘をつく


確かにこれはある意味真実。
同時に、自分に自分で嘘をつくという最も意味のない行為でもある。

エスメラルダの曲調がイメージする哀しみとともに、強烈なアイロニーがそこにはある。

誰も幸せになってないのけど、いつまでも余韻がのこるドラマ。

『アンナ』はそんな物語だ。


***

それにしても、アンナを演じたスジが素晴らしかった。というより、スジが演じたからこそのドラマだと思う(アンナを嫌いにならなかったのは彼女が演じたからだと思っている)。

miss A出身スジといえば、『スタートアップ 夢の扉』でのヒロイン役が記憶に新しい。明るく元気なイメージが強いスジだけど、ここでは抑揚のない、影のある女を熱演。新たな境地を開拓したのではないかしら。

そして、アンナの夫チェ・ジフンを演じたキム・ジュンハン。
個人的に彼を推しているので主要登場人物だったのは嬉し。
野心家で高圧的な「嫌な奴」を見事に演じきっていた。さすがだわ。そして悪い目をしてたよね。。(個人的には賢い医師生活のチホン先生のイメージを愛してます)


3.エディターズカット版とCoupangPlay版を比べてみた

前述の通り、エディターズカット版(D版)とCoupangPlay版(C版)の両方を視聴した。

D版が8話、C版が6話と尺が違うので、C版ではかなりの部分がカットされている。結論から言うと、D版の方がだんぜん面白く、ドラマとしての深みがあった。

このドラマの根底に流れる「哀しみ」や「滑稽さ」、これらが淡々と描かれるところこそが『アンナ』の魅力であり、それは主人公アンナの心情がしっかり描かれているからこそ成立する。
そういう意味でD版の方が作品として見応えがあった。

一方で、C版はいきなり物語終盤の事故シーンから始まる。
ちなみにこれは、脚本を書く上でよくあるやり方。
掴みで視聴者の関心を惹きつけるために「何があった?」と興味を引く場面からスタートするのだ。

たとえば、人が死んでいるところから始まり、その後過去に戻って話が進むというパターン。(実際のところよく見かける)

でも、D版を見た後では「これじゃない」という感じ。


ここからは私の勝手な妄想だけど・・・

C版編集にあたり、上述の手法(冒頭にショッキングなシーンを盛り込む)によって、視聴者の関心を惹きつけたかったというのはあると思う。

同時に、D版の尺が長い(冗長)と感じてこのような構成にしたのかなと。(私は全くそう思わないけど)

尺を短くするためには多くの場面をカットする必要があるので、冒頭に結末の一部を見せ、物語展開後のアンナ像を手っ取り早く視聴者に想像させようとしたのではないかしら。
そうすることで、劇中におけるアンナの心情描写シーンを削れると考えたのかも。
事実、C版では「お話」や「出来事」が展開するだけで、アンナの心情の描き方が全く足りておらず、唐突感が拭えない場面が多々あった。

また、全話冒頭に「いつもそうだった…私は心に決めたら、何でもやり遂げる」という劇中のセリフを挿入したことや、エスメラルダのバレエ曲を全話で使うことで、この曲が持つ哀しく滑稽なイメージをアンナ像として視聴者に印象づけるやり方も、D版との大きな違い。
ある意味、サブリミナル効果を狙う的な。

ただ、個人的には全話でエスメラルダのバレエ曲を用いたことは、C版の数少ない良き部分だったと思う。
アンナという女の持つ複雑さを理解していく上でとても効果的だった。

そして、C版ではアンナ意外の登場人物の描写もほぼほぼカットされているのも悲しい。
「どうして6話に編集しちゃったんだろ?」と、個人的にはとても不思議。


ということで、この編集に関する事の顛末を調べてみたら、こんな記事がありました。

(まだ揉めてるっぽい?)


ともあれ、D版「アンナ」は素晴らしき作品。

独特な余韻が長〜く心に残る。。
是非、D版を!

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