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Uターン

人を傷つけたと感じたとき、
自分のみぞおちに
刃物を突き刺したいくらい
苦しくなる。

以前からそうだ。
そのことを自覚していても
ぅ゙〜となる。

たいていは自分が話した後に、
流れる空気がかなしみや困惑の色に変わったときに、そうなる。

言わないことができたと思うほどに。
私は言わないでおこうとすれば、言わないでいられるので、
このパターンは割とある。

大事なことだったりすると、少なくとも数日前から口にするかを考えていて、
何度もシュミレーションしたり、練習したりしている。

それでも、そうなる。
話そうか迷っている時点で、話すべきではないという答えが出ているのではないかとも感じる。

話すべきではない、と、
知ってほしい、という気持ちに挟まれ、揺れる。


会話の中での言葉は、
その場で相手に合わせて生まれ、交わされるものである。
だからこそ、
思慮が足りなかったと思う。
配慮が足りなかったと思う。

ーーー

10歳になっていたかどうか
そのくらいのとき。
「言葉がなかったら、傷つけないでいられるのにね」
近所の猫に、そう話したことを覚えている。


非言語コミュニケーション
(表情、うなづきなどの仕草、声色、間合い…)
によって受け取る情報の方が、
言語からよりもずっと多いらしい。

非言語コミュニケーションは、知らずのうちに行われている場合が多い。
意識せずに出てしまったり、受け取ってしまうものも。
服装など事前に準備できるものもあるが、制御はできない側面が強い。

でも、言語はコントロールができる部分がかなりある。
少なくとも私はある。

言わなければよかった。
きかなければよかった。
書かなければよかった。
読まなければよかった。

どうしてもそう心は動く。

ーーー

人に嫌な思いをさせたか、
不安になる。
その人が嫌な思いをしたことを気にしているのか、
自分がそのことで不安になって苦しいのか、
分からなくなる。

そんなとき、
“私って嫌なやつだ”
と勝手に自己嫌悪に陥る。


森にひとりでいたい。
誰とも話したくない。
と思う。
癖になっているともいえるが、ほぼ毎回この気持ちになる。


生きているかぎり、
誰かを傷つけてしまうし、
自分だって傷つくことがある。

でも、そういうものだから傷つけてよい、
というのは違うし、
気にしないわけにはいかない。
気にできる人でいたいと思っている。

がんじがらめに、ぐるぐるになって、
どうしたらよいか分からなくなる。

私はきっと、その加減が
ものすごく下手なのだろう。

ーーー

動物は、言葉が返ってこないことがいい。
小学生のとき、そう感じた。

言葉の心だけ伝わり、
言葉はダイレクトに伝わらないからいい。

そういうものだと分かっていて、待つ私でいられるからいい。

相手が自分に危害を加えるか否か、
それだけだからいい。

心地よくしてくれる人は好きで、
好かない人は無理に好かない。
その中間もありで、

その感覚は、
私が人によって、“大丈夫の度合い”が違うのと似ているのかな、と思ったりする。


それでも、どこか人がこいしくて、
自分が何者か分からなくなる。


2024.7.13


昨日、弾けるような明るさがありながら、柔らかな笑顔の方にあった。
はじめてお会いするのに、リラックスできた。

私もいつも笑顔でいよう。
言い訳はしない。
謙虚でいよう。
謝ることを忘れずにいよう。

こう書きながら、この気持ちを持っていることは確かでありつつも、

私が生きていることで傷つき、消えていく命があるなら、
私は生きている価値がないと、生きていることがとてもかなしくなる。

草むらを歩いたら、数え切れないほどの小さな命を踏み付け、
こんな私に関わってくれる人を泣かせる。

そうしてまで私が存在する意味がないと、
申し訳なさで胸がいっぱいになる。

胸を突いてつぐないたい。
二十歳くらいから思う。
過食したとき、他のときも、
自分が悪いときになる。
ぅ゙〜とそのあたりが締められる。

手足の指がドグンドグンとうずく。
足湯して、お灸して、湿布できる部位はして、
マシにはなるけれど痛いものは痛い。
こういうことに、どれだけ時間を割いているのだろう、
日ごろの行いの悪さを振り返る。
引き裂いた人の心の手当てもせずに、私は何をしているんだ。


地獄に落ちると分かっていながら、
それでも、
それまでにひとつでも多くの命を助けたい、幸せにしたいと、心から願っている。


2024.7.14

涙を流す
何に流す
なぜ流す
誰に流す

流せることに
感謝します

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