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発信するということ

最近思う。
特定の誰かのために行うことって、続けるのが辛くなる。

でも、自分のためにがんばるというのも、なかなか難しい。

特定の誰かのため、ではない誰かのため。
顔も名前も知らない誰かのために行うことが、一番楽に続く。

それでやりがいを得るなんて、無責任と思われるかもしれないけれど、
黙っていられないのだから仕方ない。

少なくとも私にとっては、このスタンスが向いている。
休みたいときは休めばいいし、
noteだったら、気が乗らないときは無理しなくてもいい。
掻き立てられることがない(とは言いきれないが少なくて済む)。


私は、noteは自分のために書いている。
でも、誰かに読んでほしいと思って書いていることも確か。公開するってそういうことだ。

その誰かは、
生きづらい人、生きづらい人が近くにいる人。
特に、摂食障害の人に。

言葉を通して、知ってほしい。
私のいろいろな面を。
病気や障がいって、それがその人の全てのように思われがちだけれど、実はほんの一部。
家族と何でもないことで笑うし、落語をきいても笑うし、
何も次元の違う人間ではない。

実際、私が摂食障害だと話すと、その時点から態度が変わる人がいる(ご本人は決して悪気はないし、これは何回も経験している)。
でも、昨日の私と、今日の私は、
私という人間であることは変わらない。

私自身も、自分にいつも言い聞かせている。
「辛さにのっとられちゃダメだ」と。

2023.6.5


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