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場の当事者

少なくとも割と最近まで、
“いじられる人も悪い” という考えが、受け入れやすい風潮があったと思う。

いじめや嫌がらせは、する側とされる側で、
する側が悪いことは間違えない。
される側も悪い、というのは違う。


その上で、いじめる側になった人が悪い人か、というと、それは違うと思う。

その人自身は悪くない。
“いじめ” というかたちにして出してしまったことが悪い、
と私は感じる。
繰り返しになるが、いじめられた人自身は何も悪くない。


過去や今のつらい場面が思い起こされてしまった方、本当に申し訳なく思います。

いじめられた当事者には深い傷跡が残り、
その後、苦しい思い出がついて回ることになってしまう。

また、どの立場の人にも何かしらの影を残すのが、いじめだと思う。

場の当事者の人たちも、心を痛める。
どちらにも加わらなかったけれど何もできなかったと、
後になって悔やむこともあるだろう。

―――

いじめの矛先が自分に向くこともある。
自分で自分(の心や体)を傷つけるのだから、本人の問題だ。
それでは、あまりにもさびしすぎると感じる。

場の当事者として
…同じときを生きる仲間として、社会として、
ともに考えたい。
伝え合いたい。


あなた自身は何も悪くない。
抱く感情も何も悪くない。

その抱えきれない何かを、
できるだけ“やさしい”かたちにして、外に出したらいいよ、
と。


抱えきれなくなった、ということに、知らん顔ではさびしいと思うのだ。
その場、そのとき、
私もあなたも生きていたのだから。
場の当事者なのだから。

―――

“やさしい”というのは、
自分にも、まわりにも、ということ。

運動をする、
音楽をする、
文字にする、
絵にする、
自然の中を歩く、
泣く、
いやがらない動物をぎゅ~とする(注:うさぎは嫌がる)。


私は、褒められると伸びる単純人間に間違えないが、
誰でも、否定されるより肯定されたい。
私たちは、行動を褒められ、そのことから
自分の存在を自分で肯定していくように、感じる。

本当は、存在自体を直接肯定されたいのだと思う。

「あなた自身が好きだよ。」

あなたのままでいいよ、
変わりたかったら変わってもいいし、変わらなくてもいいよ。あなたが決めていいよ。
ひとつ、自分とまわりに、できるだけやさしくね。
なぜって、あなたが大切だから。


丁寧に伝えていけたらいい。
「うん」と心からうなずけるように。


そう、自分にもね。

2024.7.3


ぴょんぴょんジャンプしながら「フー」と叫ぶ!
というのは、私の力を抜く方法のひとつ。
マイケル・ジャクソンになったつもりで、頭のてっぺんから「フー」と吹き出す感じ。
発声の練習にもなる。

おひとりのときに、どうぞお試しください。

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