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私が選んだ私

本当の自分、とか、ありのままの自分、というものはないと思っている。
そのときそのときの自分でしか、いられないのだから。

でも、楽な状態の自分、や、利害関係のある人には出さない自分、というものは当然ある。


noteには、口にはしない自分、を書いている。

ひとつは、知られたくなくて、自分でも嫌だから言わない面。
病気のこと、など。

もうひとつは、
嫌いではないけれど、言いたくない面。
気質のこと、生まれ持った好き嫌いや得意不得意、など。

そしてもうひとつ、
自分で選んでいるのだが、言わない面。
ヴィーガンであること、寄付をしていること、アライであること、など。


ひとつめ、ふたつめのような、その人の弱みになりやすい面を話してもらえたときに、
特別な存在になれたと人は感じるようだ。

自分自身のそのような一面を口にするとき、誰でも慎重になるだろう。
でも、さいごに書いたような、自分で選んだ少数派の部分、自分の生き方である部分ほど、話す人を選ぶと私は思う。

私の場合、先ほどさらっと書いたいくつかのことを、全て知っているのは家族だけだ。
それに、「環境を考えて20年近く固形せっけんで洗髪しています」なんて、日常会話の中で出てくることはまずない。


発信として使っているのはnoteだけだが、このように考えると、怖いような、恥ずかしいような、不思議な心持ちになる。

文字や言葉だけで知ることができるのは、ほんの一部、ほんの一側面であることは、言うまでもない。
でも、他人というものは、どんなに近くにいても、どんなに付き合いが長くても、絶対に全ては知り得ない。

2023.7.25



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