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『自由』の中身

『自由』の中には、必ず自分なりの基準がある。
譲れない何かがある。
その譲れない何か、がその人の軸なのだと思う。

自由って難しい。
一人でいるときでも難しいのに、他人の目があると、さらに難しくなる。
自由には、正解がない。指針もない。
だから不安で、恥ずかしい。


相手の自由な姿、自由な表現を受け入れ合う場には、
やさしさと尊重し合う空気が流れている。

―――

自分でいうのも何だが、
私は替え歌がとても上手だ。
今日あったこととか、
今の気持ちとか、
即興でお風呂でよく歌う。
たいていは童謡のメロディーにのせて。
滞ることはまずない。
その場で適当にメロディーを当てることもある。

それを、だれかが聞いているところでできるか、やるかは分からない。
この特技は、生活や仕事には活かしにくい。
裁縫や料理といった、生活に直に役立つものはことごとく苦手で、
ごくわずかな特技かもしれないことはどれも、
できたらできたで楽しいかもしれないといった類のものだ。
(回りくどいのでまとめると、
できた方がいいことはできず、できなくてもいいことはできる。)


だれも見ていないところでは、
神社の狛犬さまに
「おつとめ、おつかれさまです」
と話しかけて撫でるけれど、人前ではやらない。

だれもいないときは、
生き物が死んでいた場所では立ち止まって合掌する。
見られているとできない。

自由に踊って、と言われても固まってしまう。
相手と同じ動きで揺れるくらいはできる。楽しいと感じる。

家では、好きな曲でスイング?はごくたまにする。
ノリノリの曲がラジオから流れてくると、合わせてルーナの耳をくるくるいつも回す。(気にしないで寝続ける恐るべしうさぎがルーナ)。

人の目がないときが、
本当の自分なのか、ありのままか、自分らしいのか。
正直分からない。

―――

自分自身を否定されることはもちろん悲しい。
それ以上に傷つくのは、
自分が大切にしている人や、
していることを
否定されることだ。


私は自由に生きている。
でも、何もかも好き勝手にやっているわけではない。
好き勝手にできるわけでもない。

自分の体調のこと、
家族がどうしたら幸せか、
こんな人間でも考える。

何を守りたいか、
何が心地よいか、

何が自分にできるか、
何を自分がしたいか、

折り合いをつけながら、
譲りながら、

その中で自由に生きる。


自由とはそういうものではないだろうか。



ここで考える。
『自由』がないとは、
どういうことだろう、と。

単に、
好きなことができない、
ではないと思う。

選べないということ、
迷えないということ、
押し込めることしかできないということ、
こらえることしかできないということ。


21日は、プライドパレード(東京レインボープライド)だった。1994年から始まったそうだから、妹と同い年だ。
そして昨日、22日は、アースデイだった。

自由であるべきことと、
しっかり社会の中で基準を設けるべきことがある。


一緒にいたい人が異性なら歓迎されて、同性だとそうではない現状。
梱包材が届いたのかというような配送は許されるのに、
おかしくはないだろうか。


AでもBでもいいこと。
A→BでC でも、
B→AでC でもいいこと。

どれも正解だと認めれば、
それだけで自由になれる人たちがいる。

2024.4.23




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