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「弱よろしく派」でありたい

「人は痛みを知ると、他の人の痛みが分かるようになる」というのは、小さいころ、周りの大人が言っていたような気がする。
人文科学系の本や演劇で、「弱さ」という言葉が注目されたのは、わりと最近かもしれない。

たとえば、『弱さの研究』『弱いロボット』という本は、「弱さ」がそのままタイトルに入っているし、わたしが出入りしている演劇界隈では、「弱いい派」という潮流が、東京芸術劇場でショーケース公演(いろんな団体が短編を見せ合いっこする公演)が上演されたりしている。電車の中吊りでよくある、「繊細さん」も、この潮流を汲んでいるのかもしれない。
(こうやってリンクをたくさん貼ると、物知り博士になったような気がしますね)


その潮流、「弱い」一派については、これまで色々と考えつつ、どう距離を取ったらいいのか分からなくて、あまりnoteに書いたりすることもなかったのだけれど、今日は、ちょっと勇気を持って、いろいろと書いてみようと思う。

演劇に限らず、「弱い」派が言っていることは、(私の理解でむりくり)大きくまとめると、二つあるように思う。
一つめは、「弱さ」が持っている、実用的な側面からの「弱さ」の肯定。たとえば、今の社会では相対的に「弱い」立場に置かれる人であっても、社会が変われば有益な側面があるのだから、「弱さ」や多様性も、(実用的な観点からして)尊重するべきだ、というような(弱さには強い=実益的側面もあるというような)主張。
ふたつめは、能力主義・メリトクラシー的な言説への対抗として、Doing(何をしたか/できるか・業績)ではなくてBeing(とにかくそこに存在していること自体)を尊重するべきだ、というような主張。
大きく、この2つのことが主流なのではないかと思う。(もちろん、ここからはみ出る部分もあるだろうけれど、だいたい、こういう筋が多いのではないかと思っています。)

わたしは、特に二つ目の主張、つまり、能力主義によらない人間の存在の肯定には、強く共感している。(リベラル派は、機会の均等をもとにした、公平な競争を訴えているけれど、たぶんみんな、「競争」自体に疲れ始めている。)

ただ、わたしが最近気になっているのは、そもそも「弱さ」について語ったり、「弱さ」を認識すること自体が、実はけっこう難しいうえに、語ることそれ自体にある程度の「強さ」が求められるということだ。
そもそも、ほんとうに「弱い」立場にいる人は、「弱さ」について、そうやすやすとは、語り得ないようになっているのではないかと、わたしは思うのだよな。(もちろん、だからといって、「弱さ」を語っているからと言って、「弱く」ないと言いたいわけではない。本人が言っていることをまず第一に尊重するべきだとは思う。)

わたしは、noteを2年ぶりくらいに更新しはじめて、「#哲学」や「#エッセイ」というタグでよく検索しているのだけれど、私が積極的にnoteを更新していた2年前と比べると、自己啓発的な記事(たとえば、「好きなことをやるために、副業を始めました!」というような記事)が増えているような気がしている。
きっとそれは、noteの中だけのことではない。本屋さんに行けば、ホリエモンやひろゆきの本が平積みされいるし、電車には自己啓発本の中吊りが吊ってあったりして、みんな、成功したいのだなァと思う。(わたしも、お金持ちになりたいと思って宝くじを買ったりしている。)

こういう平積みの自己啓発本を見ていて、いつも思うのだけれど、本当に成功している層(「つよい」層)が、そういう、成功するための本を読んでいるようには、私はあんまり思えなくて、生まれながらに「つよい」人たちは、自身の「つよさ」やその習慣について考えたりせず、ふつうに、「つよい」のだろうと思う。
(しかも、彼らはたいてい、余裕があるという意味で、「いいやつ」である場合が多いと私は思う。だから、わたしは彼らを「強いい派」と呼んでいる。「強い」とか考えずとも、ナチュラルに伝説のポケモンなのである。こういうことをブルデューは『ディスタンクシオン』のなかで、「文化貴族」という概念を使いながらあれこれ書いていたのだった)

逆に、そういう本を買って成功を夢見る、「弱い」人たちは、自分が社会構造的に搾取される立場にあることに気がつかずに、努力によって成功できることを願っている節があるのが、かなしいところだ。(私もそのうちの一人かもしれない)
noteで自己啓発的な、「ジャンキー」な言葉たちを、インフルエンサーを引用しながら意気揚々と書き連ねている人たちは、たぶん、あまり自分のことを「よわい」と思ったことはないだろう。むしろ、すごい考え方を知った「つよく」なれる未来の自分に希望を見出している。いわば、「俺TUEEEE派」だ。ただ、強そうな言葉に安易に呑まれてしまっているという点では「弱い」と、私は思う。(ただ、そもそも人間のことを、「強い」とか「弱い」とかいう言葉で語ること自体に、抵抗もあるのだけれど。)

自己啓発本的な言葉を再生産してしまう「弱さ」は、文化的な「弱さ」でもあるだろう。
自己について語りうる文化資本を持たないからこそ、「ジャンキー」な自己啓発的な言説をなぞることで、自己を語ろうとしてしまう。それは、自己の「弱さ」を語りえず、認識できないようにさせられているという、「弱さ」だ。

(ここで一応言っておくと、わたしは、そのような「弱い」人たちを、非難する気持ちは全くないし、この記事で使っている全ての「弱い」は、私が思っているというよりかは、社会のなかで相対的に「弱い」位置に置かれてしまっているという意味で、「弱い」だ。リベラルの人たちは、しばしば「反知性主義」という言葉を使って、まさに、こういう「弱い」人たちと喧嘩しているけれど、誰か何を信じて、何を知的だと感じるかは、その人のこれまでの生活の全てに根ざしているものであって、外から見て知的だとかそうじゃないとか、合理的だとか非合理的だとか、たやすく非難していいものじゃないと、私は思う。(そういうふうに考えると、ある人たちを「弱いい」と一括りすることは、「いい」という価値判断と「弱い」という事実概念を混ぜている点で、少し危険な香りがする。「よくない」かつ「弱い」人たちは、どうなるんだろうか。そういう人たちは、いないんだろうか。「いい」と決めているのは、誰だろうか。))


まことに「弱い」立場に置かれている、ある種のひとたちは、そもそも、「弱さ」からも疎外されてしまっている。社会構造のなかでの「弱さ」を認識するためには、文化資本的な意味での「強さ」がある程度求められるからだ。
(日本で、生活保護水準を満たしているにもかかわらず、生活保護を受けることに抵抗がある人が多いのは、「弱さ」を受け入れるための最低限の文化的「強さ」もが、奪われてしまっているのではないかと、ときどき、思う。これについては、もう少し実態を調べないと、わからないことだけれど。)

だから、大切なのは、よもや自分が「弱い」とは思っていない人たち、あるいは、そもそも「弱いい」について関心を持つだけの文化資本を持たぬ人たちに、どうやって「弱いい」という言葉を届けるかということなのだろうと、思う。(ただ、そもそも、こういう書き方自体が、ある種「強い」書き手である私の傲慢だとも思う。のうのうと「文化資本」についてブルデューを引用しながら語れるこの傲慢さが、世界中で絶え間ない分断を生み出しているのだとも、思う。)

「弱いい」という言葉は、やっぱり、なかなか簡単に扱いきれないような気がする。

だから、ひとまずのところ、価値判断は差し控えて、とりあえず「弱さ」そのものを迎え入れたいという意味で、わたしは「弱よろしく派」になろうと思うので、よろしくおねがいします。よわよろ派、である。


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・・・そういうことを考えたのは、ウンゲツィーファの演劇、『Uber Boyz』を観てからだ。この作品は、いわゆるゼロ年代の2ch的な言説や漫画・アニメの言説を引用しながら、未来の世界でUberをする「弱い」人たちが描かれている作品なのだけれど、この作品の面白いところは、引用が多すぎて、ほとんど何を言っているのか分からないというところなのだ。(作品の中身については、山﨑健太さんが詳しく書いている。

この作品、東京芸術劇場のシアターイーストに来た観客たちは、ほとんど何を言っているか分からなかったのではないかと思う。
(私もなんだかよく分からなかった)

たぶんこの作品は、本当の意味で「弱い」人たちが、「強い」人たちに理解可能なかたちで、「弱さ」について語る語彙を持ち合わせていないということを示していたんじゃないだろうか。
文化資本という意味で「弱い」人たちは、自己について語るときに、既存の「ジャンキー」な語彙しか持ち合わせていないのだ。そして、その「ジャンキー」な語彙は、そもそもが消費社会のなかで直ちに消費されるために開発された語彙でしかないから、自己の弱さを語りうるだけのしなやかさを持ち合わせていないのである。だからこそ、「強い」人たちには、「何を言っているのか分からない」。
文化資本を持つ層は、文化資本を持たぬ層の語りえぬ語り(「かそけき声」)を、そもそも理解できない。トランプ支持者たちが、自身に不利な「強い」政策を支持するのは、きっと「ジャンキー」な語彙だけが構造的に与えられるようになってしまっているからで、リベラルは、そのことが見えていないのだと思う。
(だから、そもそも、それが「かそけき声」なのかどうかも、「知性主義者」たちには、よく分からない。だからこそ、彼らのことを、ジャンキーなノリで盛り上がっているイタい人たちとして見てしまうし、時として、「反知性主義」という言葉を使って揶揄したりしてしまう。)


東京芸術劇場に来た観客の多くが体験した「ポカーン」は、きっと、劇場の中だけで起こっていることでは、ないのだ。
この「何を言っているのか分からない」に、リベラルが(あるいは、「文化資本」を持つ層が)真剣に向き合わない限り、分断は埋まらないだろう。
そもそも「かそけき声」かすらよく分からない、ときとしてノイジーな形を取ることもある言葉への、無邪気な「ポカーン」の暴力に、持てる者は自覚的であらねばならないのだと、わたしは思う。

だから、「ちょっと何言っているのか分からない」という言葉ときちんと向き合えるような、サンドイッチマン的に弱さを受け入れるしなやかさを持って、生きていきたいと思います。




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『Uber Boys』について書かれた劇評としては、以下の二つの記事があるようです。


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