上演を自粛してしまった去年のこと
noteはスキ機能を、コメント機能みたいに、選択制にしてくれればいいのに、と思う。
私は意志が弱いから、スキの数に惑わされてしまって、ついつい、多くの人にウケが良さそうなことを書いてしまう。webの片隅にそんなこと書いて100人がスキしてくれたとして、何の価値もないのに。
2021年は、自分にとってピポットになりうる一年だったのだと思う。(つまり、それを軸として、これまでとこれからの方向性が変わるような、そういう一点だということだ。)
わたしの中に語りたいことはたくさんあるのだけれど、全くの未整理で、だからこそ、特に何かを発信することのないまま、2ヶ月くらいが経ってしまった。
今も、未整理なことは多いのだけれど、とはいえ、断片的に書き連ねることはできそうであるし、少し頭の中だけで考えすぎていてショートし始めている傾向があるので、noteにこうして考えていることを、今日はちょっと書いてみようと思う。語り得ず頭の中でぐにゃぐにゃに歪められた思考の断片である。
------
2020年、東京都に緊急事態宣言が出たタイミングで、「No. 1 Pure Pedigree」の上演中止を決定した。私は悔しくて、半泣きでQueeenを聴きながら衝動的にギターを買いに行ったのだった。
あのとき、上演を強行するべきだったんじゃないだろうか。
「文化芸術は不要不急ではないし、生きるために必要なものだと私たちは思うから上演する」というステートメントも、私は書いていたのだ。上演実施のお詫びとして、下書きに入れておいたのだが、ついに公開されることはなかった。
あのとき、演劇の上演を強行していたら、劇団として大赤字が出ただろう。劇団員から結構な額のカンパを集める必要も出ただろう。観客は殆ど来なかっただろうし、俳優やスタッフの何人かも降板していただろう。稽古場も見つからなかっただろうし、ネットで叩かれもしただろうと思う。劇団の運営は、間違いなく傾いただろう。
つまり、不十分な質の公演を、自分の演劇の継続性を賭けてまでやる覚悟は、私には、なかったということだ。「No. 1 Pure Pedigree」の上演は、劇団の継続性のための犠牲になった。
(もしコロナが落ち着いて上演されたとしても、それを私は「No. 1 Pure Pedigree」とは決して呼ばない。)
でも、本当にそれでよかったんだろうか。
もし新たな疫病が流行れば、私たちは再び演劇を辞めるだろう。
もし戦争が起きたなら、私たちは演劇を辞めるだろう。
大きなモノに屈するというのは、そういうことなのだろう。
命は、大切だ。(あたりまえである)
だけれど、表現は本当に、命の二番手以降だろうか。
あのとき私たちは、命を賭けて闘った芸術家たりえただろうか。
命が表現の自由に先立つことは、本当に当たり前だったんだろうか。
いずれ、必ず人は死んでしまう。(これも、あたりまえのことだ)
私たちが、死んだあとも永遠に続くのだとしたら、それは、「継続性」によってではなくて、ある瞬間における生の発露でしかあり得ない。アーレントが言うように、「労働」は「不死」たりえないからだ。
命を賭けて行なった何かだけが、他者に連鎖し、継続に値するものたりうる。(だから私たちは、誰かを愛したくなるのだと思う、とはいえ人類もいつかは滅亡するのだろうけれど)
ブラックボックスのなかで、継続を目指して必死に走り続けたとて、その先にセリヌンティウスがいなければ、葛西臨海公園のマグロに過ぎないのだ。自分自身のことを人的資源と見做している限り、ザネリの沈んだまま銀河鉄道は永遠に廃線されるだろう。目的なき継続は、虚しい。
あのとき、劇団の継続性だけのために(もしかしたら我が身のために)、わたしは自粛要請に従ってしまった。
人生を賭けてやっていることを、自粛の要請で、辞めてしまってよかったんだろうか。作品の中で社会批判を展開していたところで、社会から要請された途端、矛を収めてしまうのだとしたら、それはポオズに過ぎなかったのだろう。その辺りが、2020年の自分に関して、どうも、自信がなくなってきてしまっている。ミネルヴァの梟が飛び立つ今や黄昏時である。
要請を無視して、たとえ最後の公演になったとしても、劇場に来てくれた一人か二人の観客に作品を届けるのが、本当はよかったんじゃないかしらと、ときどき、思う。
メロスが手にした瞬間の躍動を信じて、粛々と演劇を続けていきたい。
---------
Twitterでの正義の争いに、ほとほと、つかれてしまった。
何か正しそうな感じのことを言えば、(Twitter社のアルゴリズムに基づいて)わたしの仲良しが見て、いくつかの「いいね」をくれるかもしれないけれど、それだけで社会が良くなることは絶対にないだろう。むしろ、正義の呟きによって、世界は明らかに悪くなっている。
相手の主張を顧みるほどの余白は、140文字にはきっとない。「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」という一抹の不安無しに、議論なんてできるのだろうか。加害者(とされた人)総バッシングしたり、右派と左派の対立だったり、ポリコレ棒で殴ってみたり、いずれにも、自分への疑いが全くないものだから、悲しいところだ。
演劇界隈の人たちが、カレーがどうのこうの言って大騒ぎしているのを見て、わたしはまたしばらくTwitterから離れることにした。
相手のことや経緯もよく知らないまま、よくそんなに悪く言えるよなと、シンプルに思う。Twitter上でいくら正しいことを言っても、相手に会いに行って喋る覚悟がない限りは、何かが変わることは、基本的にはないだろう。正しいことと、それを伝えることは全く違うことなのだから。(もちろん、関係者が騙された形になっていたことは問題であるし、関係諸氏が意見を表明すること自体は、よいことだと思っています。政争(っぽさ)の具に使われてしまっている現状が、わたしは残念だと思う。)
だから、今後、わたしは、どうしても相手と議論したいときは、zoomや対面で、嫌いな奴と会うか、丁寧に論文にして、ちゃんと話すことにしたいと思います。(逆に、会いたくないくらい嫌いな奴とは、議論しないことにします。そんな人は滅多にいないんですが)
会って話せば、分かり合えなくても、共存することくらいは(たぶん)できるはずだし、もしかしたら、もっと良いアイデアが互いに生まれるかもしれないというのは、あまりにもポジティブすぎるでしょうか。
------
私は特に理由なく、メンタルの体調を時々崩すのだけれど、そういうときにnoteをガーっと書きがちである。今がそうである。(そういう時、なにかを頑張ると、経験上、もっとひどくなるので、頑張るのをやめることを頑張るようにしている)
メンタルを崩しているときは、大抵変な(そして悪い)夢を見て、夜中に目が覚めがちだ。
昨日は、出口のない古民家で複数のキューピー人形に追いかけられる夢を見たし、今日は泣いている友達を慰めようとアイスを買おうとするのだが、アイスの自動販売機が見つからないという夢を見た。
(こうやって書くと、いずれもオモシロ系であるが、夢の私からしたら恐ろしかった)
この記事も半ば勢いに任せてガーっと書いているのだけれど、他方で、そういう時に書いた時の文章の方が、あとから自分で読み返すと面白かったりするものだから、不思議だ。
(ちょっとヘロヘロになりつつあるので、)
そういう、自分の救いになる習慣を、今年は大切にしていきたい。
読んでくださってありがとうございます。 みなさまのコメントやサポート、大変励みになっております。