へんてこの詩を身体にながすこと
その人の身体を巡って書かれた言葉が、好きだ。
何年か前に、演劇の感想で「身体に詩が流れている俳優さんの演技は美しい」というような感想を読んで、なるほどと思ってしまった。(いや、正確には、ずっと引っかかっていた言葉が、最近腑に落ちたということなのだけれども。)
身体や発語に詩性が宿っているということは、わりとあるような気が私もしていて、そういう人の言葉は信頼できるような気がしている。(何が違うのか、と言われてしまうと困るのですが。)
「自分らしさを大切にしよう」という言葉が、まことしやかに流通しはじめて久しいのだけれど、その言葉自体が、もはやあまりオリジナルでない。もちろん、「自分らしさ」は大切にしたほうが人生ハッピーだと私も思うのだけれど、「自分らしさを大切にしよう」で言われていることって、しばしば、「自分らしさを雄弁に語ろう」ということでしかない時があるから、わたしは、少しこわい感じがしている。
そういうときに出てくる雄弁な語りは、やっぱり、せいぜい誰かを説得させたり、相手を感動させたりすることくらいしかできないわけで、その人の匂いはそこにはないよなァと、寂しい気持ちになる。
同じようなことを表現するのに、何通りもの表現のやり方が日本語にはある以上、やっぱり、その人がへんてこに喋るだけでも、その人なりの詩は宿るわけで。その人の「その人さ」は、振る舞いや言葉選びの詩性にはじめて宿るのであって、そもそも、人が語ることのできるものではないような気がするのだよな。
どうも、noteはじめ、いろいろなことが、きれいな物語化していっている気がしていて、わたしはもっと、いい加減な物語がもっと読みたいのになァと、いつも思う。あなたの詩は、あなたにだけ分かればいいのに。
自分の人生のことだって、他人との関係性だって、昨夜読んだ本のことだって、基本的には語られないことのほうがとても多いのだし、なぜそれを語ったのかとか、なぜそれ以外を語らなかったのかとか、言葉を通して滲み出るだけのへんてこさが、私は気になっちゃうのです。
雄弁に語ろうとしてばかりいると、自分の身体がこわばりがちなので、たまにこうして、いい加減でへんてこなことを書き散らかしていければ、さいわい。