老いへの苛立ちについて

 人間誰しも避けて通れないのが老いである。子どもから大人の身体へと成長し、やがてできないことが増えていく。世の中に溢れる<老いを楽しもう>というキャッチフレーズを寛容さを装った仮面で受け入れる素振りを見せる一方、ある種の苛立ちが僕自身の中に渦巻いてしまう。自分のことが嫌になってしまった体験を記しておきたい。
 2021年4月上旬、僕はカフェのテーブル席でブルーマウンテンをすすりながら、カウンター席の端に座る高齢男性の後ろ姿を見つめていた。気になってしょうがなかったのは、その顔と携帯電話の距離の近さだ。おそらく老眼で目が悪いのだろう。おでこが画面につきそうな距離で、最近では珍しくなったガラケーの画面を覗き込み何やら文字を打ち込んでいた。整えられた白髪と皴一つ無い黒いシャツとは似つかわしくないその姿は、僕をいささか苛立たせ、「年は取りたくないものだ」と思わせた。そして、誰にも迷惑をかけていない高齢者相手にそんな気持ちを抱く自分自身を心の底から嫌悪した。
 なぜそんなことを思ってしまったのだろう。最近、視覚について考えることが多かったからなのかもしれない。故郷の父が緑内障と診断され、効き目の視野が一部欠損し始めていると聞いた。本は普通に読めるし運転もできるから日常生活に支障は無いという。でも、60代半ばになる父が確実に老いていることを実感すると、妙な悲しみが胸を刺す。「老いによって失うものと同時に得られるものもあるんだよ」と人生の先輩達は言うけれど、その真意を20代の僕はまだ掴めていない。
 難なくできていたことが老いや病気や事故によってできなくなってしまう。それに僕は耐えられるだろうか。現実を受け止めることができるだろうか。そんな境遇になった時、他者に対して優しく接することができるだろうか。正直、自信はない。そうだ。あのカフェで覚えた苛立ちは目の悪い高齢者ではなくく、自分自身に向けられたものなのだ。僕は自分の大切な家族が老いていくこと、そして自らも老いていく一人だということを受け入れられないでいる。その不安な感情を他者に対してぶつけているだけだ。僕はなんとあさましい人間なのだろう。自分の弱さを痛感してしまう一日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?