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異国の地に暮らす人への見方の変化

 2022年5月上旬、東京都内にある自宅最寄り駅前で、若い東南アジア系の女性に呼び止められた。女性は名刺大のカードを差し出し、私に対して読むように一瞥した。カードにはこう書かれていた。

 <わたしは留学生です。お金なくてこまっています。おかしを買ってもらえませんか>。両腕からぶら下げた白い紙袋には、パック詰めされたチョコレートが収まっていた。知人との約束の時間が迫っていた私は「急いでいるから」と断って改札へと向かった。だが、居心地の悪さが胸に残った。元来こういった申し出には付き合わない性分なのに、どうしてこんな思いを抱くのか自分でも分からなかった。改札に入る直前、その居心地の悪い気分に我慢できず、話だけでも聞いてみようと思い直した。引き返してきた私を見ると、女性は申し訳なさと安堵感が入り混じったような表情を浮かべた。私の拙い英語に対し、彼女は流暢な英語で身の上話を始めた。フィリピン南部・ミンダナオ島にあるカガヤンデオロ市の出身で、日本語を学ぶために来日したという。カガヤンデオロには1か月前に仕事で出張したばかりだったから、妙な親近感を覚えた。ツナ(マグロ)が有名な街で、仕事終わりに刺身や兜焼きを堪能した街だった(刺身は英語でも「Sashimi」で通じることを私はその出張で初めて知った)。

 「コロナで大変だから、留学生仲間と助け合って生活している」。元々は飲食店で働きながら学校に通う予定だったものの、なかなか働き口が見つからない状態で、学費や生活費を工面するのに苦労しているのだという。そこで仲間と考えたのが、フィリピンのお菓子を大量に取り寄せ、複数の味を一つのセットにして売る方法だった。値段は、日本の「キットカット」や「ウエハース」のようなお菓子が5種類入って1袋500円(税込)。ちょっと高い。だが、これは付加価値をつけた立派なビジネスであり、物乞いとは違う。その姿勢に敬意を表する一方で、異国の地で暮らす大変さを思った。

 彼女と状況は違えど、私は大学院進学のため今秋から1年間イギリスで生活する。海外旅行をしたことはあっても、「日本以外の国に住む」という経験が私には全くない。旅行先と居住の拠点では、その地で見えるものは大きく違う。少なくとも、故郷の長崎から上京した際は、他者との心理的な距離間の違いや電車・バスといった交通機関を使いこなす大変さ、ゴミ出しのルール等の違いをひそひしと感じた。そうしたギャップは日本国内での移住でさえ感じるのだから、言語や習慣が違う国に移住すれば尚更だ。さらに、仕事を辞め貯金や奨学金で暮らすため、円安の影響でいつ家計が逼迫するかも分からない。そんな不安がある中で偶然出会ったのが、この若いフィリピン人女性だった。「彼女は未来の自分かもしれないし、誰だって生活が困窮することはあり得る」。不遜な考えかもしれないけれど、何となく放っておくことができなかった。これが最初に感じたあの居心地の悪さの正体だった。

 正直に言えば、渡英が3か月前に迫った今でさえ、異国の地で暮らすということを私はまだうまく想像できていない。その一方で、日本で暮らす外国人の苦労には以前とは違う共感性を持つようになってきているし、英語を真剣に学ぶようになってからは日本で働く外国人の日本語アクセントも大して気にならなくなってきた(私の英語もサムライアクセントもとい日本語訛りだから)。「イギリスで本当に自分は生きていけるのか」。不安は消えないけれど、彼女から2袋購入したちょっと高めのフィリピン菓子をつまみながら今日も英語の勉強に励んでいる。

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