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会社を継ぐということ~僕が事業承継の仕事に感動を覚える理由~

マイクロ人事部長の髙橋実です。

さて、僕は2018年からそれまで行っていた企業人事から、いくつかの会社の組織課題に取り組む「人事の複業」という仕事のスタイルに変わったわけですが、そこから約3年、案件の中で多かったのが「事業承継」にまつわる企業のお手伝いです。

僕はまず初めに、必ず時間をかけて打ち合わせをし、経営者が感じる課題の背景や考えを徹底的に聴きます。僕ができることもお伝えし、お互い本当に納得してできるかを判断していただきます。

でも、僕自身が「やりたい」と反応してしまうのが事業承継の案件なのです。なぜ反応してしまうのか。それは恐らく僕が過去事業承継で失敗した経験があるからです。事業承継はとても難しい。だからこそ「やりたい」と反応してしまうのです。この原点は、僕自身が失敗した事業承継の時の経験だと思っています。今日はその失敗体験をNoteに書き留めてみたいと思います。

ちょっと長いです。もしよければお付き合いいただければ。

社長になりたかった僕

僕は新卒で大手クレジットカード会社に入りました。当時の僕はとても尖がっていて、「いずれ社長になるんだ」と考えていました。若かったですね(笑)。当時のパートナーの義父が時計の製造と卸の会社を営んでいて、年商は30億円前後、時計業界では中堅のトップ、SEIKOやCITIZENの高級時計とは一線を画し、ディスカウントショップの時計売場でトップシェアを誇っていました。社員は30名前後。バブル崩壊後でしたが、業績はうなぎ上りで順調。メガバンク(当時は都市銀行と呼んでいましたね)からはひっきりなしに融資の話が来るような企業でした。

28歳の時、義父から「この会社の跡を継いでくれないか」と話がありました。僕も義父から事業の話は聞いていたし、社長になりたかった僕に断る理由がありません。当時在籍していたカード会社ではとても面白い仕事をやらせてもらっていましたが、全く迷いはありませんでした。

入社時期は1998年1月。
義父は事業承継を意識していたのでしょう。全国に持っていた販売網だけでも十分にやっていけたのですが、僕が入社する前に、事業拡大をして高級時計の取り扱いを開始する準備を進めていました。ただ、そのためには自社で物流拠点の整備が条件になり、埼玉県三郷市に、物流倉庫を新設しました

メガバンクが主催する取引先会合にも呼ばれるようになり、義父はとても喜んでいました。取引は地方銀行や信用金庫からメガバンクにシフトしていきました。金融機関に勤めていた僕は「あまりメガバンクに偏るのではなく取引を分散してリスクヘッジをしたほうがいい」と伝えていたのですが、チヤホヤしてくれるメガバンクとの取引が増えていったようでした。

入社3日目に経理部長に呼ばれる

そんな中、僕は義父からの申し出を受けて、会社に退職の意思を伝えました。「もったいないなぁ」そんな言葉をくれた上司たちでしたが、僕が跡を継ぐことはとても喜んでくれ、退職もスムーズでした。周りの同僚たちは「いいなぁ次期社長、玉の輿だね」と、(やっかみ半分でしたが)羨ましがられます。

そして1998年1月に入社。周囲の社員からは「二代目」と呼ばれました。当時の僕は若気の至り、今思えばバカバカしい話ですが、まんざらではないなと感じていました。

そして、入社して3日目。
社員の中でもおとなしめの経理部長から、
「二代目、少しお話ししたいことがあるのですが、今日の夜空いていますか?お食事をしながらお話ししたいのですが。」
と、声をかけられました。

経理財務面は僕も気になっていたところです。夜、二人で事務所から少し離れた落ち着いたお寿司屋さんに行きました。

少しだけお酒を嗜み、お腹も満たした時に、経理部長が、
「少し見ていただきたいものがあるんです」
それは、経理台帳でした。

「じつは、会社の財務状況は非常にまずくて、2月末の支手決済※の支払額が5千万円ほど足りません」

「支手決済」とは、支払手形の決済のことです。支払期日に手形を決済することで、その際には当座預金に必要な資金(支手決済資金)を入れておかないと不渡りになります。

詳しく聞いてみると、この時計業界では約束手形でのやりとりが恒常的になっていて、会社の約8割が約束手形でやりとりがされていたのです。

「約束手形」とは、手形の振出人(支払人)が、代金の受取人に対して、所定の期日に決められた金額の支払いを約束する証書のことです。手形は、一般的に「売掛金」や「買掛金」よりも支払期日を先延ばしにできます。そのため、手元の現金が少ない場合などでも、支払期日まで余裕を持ってお金の準備ができるという特徴があります。約束手形とは?

経理部長が持ってきていた今手元にある約束手形の一覧表を見てみると、支払期日はほとんど90日後。でも、慣習で手元資金の現金化はこれまで手形割引で行ってきたというのです。そして、バブルが弾けて昨年末くらいから、手形割引を持ち込んでいた銀行が、手形割引の審査を厳しくして、持っている約束手形の資金化がほとんどできなくなったというのです。

「手形割引」とは、商品やサービスを提供した対価として現金の代わりに有価証券である「約束手形」をを決済日前に現金化すること。手形割引とは?

手元にある約束手形の総残高は2億円ほど。

「ちょっと待って。今手元にある現金はどのくらい?」
「じつは、手元現金は1千万ほどしかありません。昨年建てた物流倉庫の支払いが現金が多くて、手元資金がほとんどない状態です」
「つまり、あと2か月で4千万現金を集めなければ、不渡りが出てしまう、ということ?」
「その通りです。。。」

目の前が真っ暗になりました。
入社して3日目。「二代目」と呼ばれることに浮かれていた僕は、あっという間に現実の世界に直面することになりました。

危機感を共有できない

「この件、社長には話したんですか?」
僕は経理部長に、そう聞きました。
「話そうにも、社長は事業を大きくすることばかり考えていて、聴く耳を持ってくれないんです。」。経理部長は、そう答えました。
「分かりました。僕が社長に話をします」。

次の日の朝、早速僕は社長である義父に、財務状況の話をします。
「大丈夫だよ。何とかなる」。僕が感じた危機感とは裏腹に楽観的。義父の反応は僕の期待を全く裏切るものでした。僕はここで確信します。
(ああ、これは僕が動かなければ、始まらないんだな)

振り返ってみると、会社は義父が一代で築いたもの。
高度成長時代に商機を見つけ、そこで徹底的にアクセルを踏んできたのです。それはとてもすごいと思います。でも、右肩上がりの事業をしてきた義父には、ブレーキの踏み方は理解できないのです。

「売上は上がっているんだから、現金を集めてくればいいんだろ?だったらさらに売上を上げて、現金回収すればいい。たかが1回の支手決済。乗り越えられるよ。大丈夫。」
義父は早速懇意な大手の取引先に電話をかけ、その日から近隣、地方問わず自ら売上を上げるために商談に向かい始めました。

僕はまだ、取引先にも信頼どころか名前すら憶えられていません。営業は、義父に任せるしかありません。

24時間、寝ずに仕事をする

僕はこの日から、徹底的に自分のギアを上げました。
僕ができることは少ないかもしれないけれど、とにかくやれるべきことはすべてやる。そう覚悟を決めました。

朝は誰よりも早く事務所に行き、掃除をし、とにかく現場を見ることだと、社員の営業動向、在庫管理、検品、財務状況の精査、新しく建てた物流倉庫に通い最速で商品を動かせる体制を整える。そして経理部長とは、金融機関への交渉を一緒にし始めました。

僕には、ベッドで寝た記憶がありません。
とにかく走り回っていたことしか、覚えていないのです。

新卒で入社した会社では、「不夜城」と言われていた部署に配属になり、毎月200時間近くの残業をしていました(笑)
午前中に「今日は1時からミーティングやるぞ」と言われたら、それが夜中の1時から始まったり。今では完全にアウトですが、でもとても楽しかったのです。やりがいに満ち溢れているような仕事でした。同期の誰よりも、いや、社内の若手の誰よりも仕事をしていた自負がありました。
でも、それ以上に僕の人生の中で最も仕事をしていた時期は、間違いなくこの危機的状況の時でした。

手のひらを返した銀行

銀行との取引は、開業当初から長年付き合ってくれた地元の信用金庫があったのですが、バブルが破綻した後も業績の良かった会社に都市銀行(今のメガバンク)がすり寄ってきていました。僕の入社する数年前から「地域でも元気な中小企業」と、銀行主催の会合にはいの一番で呼ばれるようになったらしく、会合でスピーチさせてもらったり、義父はとても喜んでいました。

しかし、バブル崩壊のツケが回ってきて、僕が入社する同時のタイミングで銀行が取引の締め付けを行い始めました。それまでは「おたくは信用があるから」と全て手形割引ができていた銀行が、いきなり「手形割引は優良な取引先のみ」に舵を切ったのです。悪いタイミングで物流倉庫への投資をし、短期キャッシュフローを手形割引で回していた会社は、一気に苦境に立たされました。

しかし、義父はいつまでたっても、
「手元に手形があるんだから割引手形してもらえばいいだろう」
と言っていました。右肩上がりの業績に向けアクセルを吹かしてきたビジネススタイルを貫き通してきた義父には理解できていません。ましてや経理財務は経理部長にずっと一任し、どんぶり勘定で行ってきていたのを、すぐに数字を理解しろと言うのは酷だったと思います。
会計士もついていたのですが、現状を話したところ、それから寄り付かなくなり使いものにならなくなりました。
僕は、経理部長とともに、金融機関交渉を行っていました。

都市銀行が話にならず、古くからお世話になった信用金庫も数年前に取引を全て都市銀行に寄せてしまって、お願いをしても、
「いやー今は取引がほとんどないですからねぇ」(完全に嫌味だ)
と、相手にしてくれません。

それでも、2月中旬になんとか4千万のうち3千万は現金をかき集めました。でも、あと1千万円足りません。

すると、決済日の3日前に、義父が「1千万円調達できた」と、現金を持ってきたのです。これで、なんとか首がつながった。そう安堵しましたが、同時に嫌な予感もしていました。

不安の広がりと、債権者の前の土下座

この1千万をどこで調達してきたのかと義父に聞いても、教えてくれません。最後まで調達先は分からなかったのですが、恐らく僕は、懇意にしている取引先と「ユウテ(融通手形)」をしたのだと思っています(闇金に駆け込んだのではと最後まで心配しましたが、大丈夫だったようです)。

「融通手形(ゆうずうてがた)」とは、決済を必要とする現実の商取引がないにもかかわらず、振り出される手形である。商業手形の対義語。通称、「ユウテ」と呼ぶ。

嫌な予感は当たりました。「二代目、うちってヤバいんですか?取引先から”おたく大丈夫なの?”って言われて、誤魔化しておきましたけれど、、、心配です」
社員から、こんな声が聞こえてくるようになりました。

狭い業界です。噂は回る。恐らく発信源はユウテ(融通手形)先だと思います。そこから、一気に銀行や取引先から問い合わせが入るようになりました。特に痛かったのは、仕入先にも噂が流れたことです。せっかく売上があるのに、仕入れができない、という事態が出てきました。

ある日の夕方、仕事が終わり実家(義父の家)に行くと、居間にお客さんが来ています。僕も入っていくと、不穏な雰囲気があります。
「これはまずい状況かもしれないな」
相手は仕入れ先の一社。その社長と役員、しかも明らかにスーツのいでたちが普通の人と違う。僕は、覚悟を決めて、席に座りました。

「社長(義父)、変な噂が回っていますけれど、大丈夫ですよ。何かあったら僕らがお助けしますので、何なりと話してください」
言葉は優しい言葉ですが、明らかに雰囲気が違います。以前社員から「あの会社は表向きはホワイトだけれど、傾きかけた会社にお金を貸してそのまま傘下につける」と聞いていました。ついに来たか、と。

恐らく義父も分かっていたのでしょう。のらりくらりとやり過ごしますが、なかなか帰ってくれない。こちらも相変わらず短期資金はギリギリで、2か月後の支手決済がまた厳しい状況になっている。相手も恐らく事情を理解しているのでしょう。

結局8時間彼らは居間に居座りました。そして最後に義父が「お金を貸してください」と言ってしまいました。

それを受けて、相手の社長がこう言いました。
「社長(義父)、分かりました。でも1つ条件があります。社長が退任して、そこの二代目が社長を継いでください。2億円貸すので。若いし、ねえ、大丈夫でしょう」

凍りました。

正直、そこから1時間ほどのことは、あまり覚えていません。
気づいた時には、実家の居間で、土下座していました。

「申し訳ありません。僕には、継ぐことはできません」
当時の僕には、覚悟がありませんでした。

決断

土下座事件の後、逆に僕は意思を固めます。
「会社を継ぐのは無理だけれど、僕の責任で閉じなければならない」
今思えば、自転車操業ではあったものの、僕が2億円の借り入れをして(当面の円滑な企業運営に必要な資金額でした)会社を存続していけば、会社は持ったかもしれません。でも、当時はバブル崩壊後、事業の先行きもかなり厳しく、民事再生法もなかった時代です。今2億円の借金を背負えと言われたら受けると思います。でも、当時の僕には決断ができませんでした。

そして、すでに銀行や業界には「危ない」という噂が蔓延し、社員も仕事にならず浮足立っています。義父の右腕だった役員は反旗を翻しています。その状況を取り返せるだけの打ち手を僕は持ち合わせていませんでした。

僕は、経理部長にこう囁きました。
「まだ望みは捨てないけれど、事業を閉めるセカンドプランを考えなければいけない。社内でも秘密裡に動かなければいけないのだけれど、協力してくれませんか」。
経理部長は「もちろん協力します!」と快諾してくれました。

また2か月先の7月の支手決済が危ない状況。
並行して弁護士に相談し、会社を閉めるプランを相談していきます。あまりにステークホルダーが多すぎて、調整がかけられない。やるとすると「自主廃業」の形を取らざるを得ないとのアドバイスがあり、そうすることにしました。7月の支手決済前に、決断をする。それまでは、いつでも動けるセカンドプランを準備しつつ、とにかくやれることをやる。そう決めました。(これが正しかったのかどうか。未だに分かりませんが)

最期の日

結局やれることはすべてやったけれど、相変わらず手元には手形割引ができない2億円の約束手形が残ったまま。7月の決済資金は、準備できそうにありません。

僕は、決断しました。「7月末の支手決済日前に、自主廃業する」
義父にもその旨伝え、了解を得ました。義父もここ数か月の状況で、ある程度覚悟を決めていたようです。体調も悪くなり、「任せる」と一言つぶやきました。この情景は、今でも忘れません。

7月中旬にXデーとして、その日に事務所、物流倉庫を閉鎖することにしました。もうここまできたら、社員にすら気づかれず、秘密裡に行うしかありません。弁護士も全て受けてくれるとの了解を得ました。

Xデーの午前2時。事務所と物流倉庫に「自主廃業の張り紙」をして、以降は弁護士での債務整理に入ってもらうことにしました。恐らく大混乱になると思ったので、義父の家族は自宅からしばらくホテルに身を置いてもらうことにしました。どんな輩が出てくるか分かりません。最後に事務所に張り紙をして、最後に鍵を付け替えた時、涙が流れてきました。僕は、声を殺して、泣きました。

終焉を迎えて、その後

Xデーの朝、幸い僕は債務を背負うことなくこの日を迎えました。でも、恐らく僕の自宅にも債権者が来ると思い、しばらく自宅に籠ることを覚悟しました。朝、僕の携帯電話が鳴ります。出ると社員、債権者からの罵声です。僕は「申し訳ありません。力不足でした。あとは弁護士に預けます」言えるのはそれだけでした。

自宅にも債権者はやってきました。マンションの下には、黒塗りの車が数台止まっていました。恐らくその筋の人たちでしょう。弁護士から「もしかしたらそういう人が来るかもしれないので、絶対に対応しないように」と言われていたので、それを守ることにしました。

そこから、債務情報の整理(これは事前におおよそまとめていた)と、最も気になっていたのは社員の行く末です。2週間ほどして事態が収まってきた時に、それぞれの社員に連絡をして、一人一人に謝罪しました。そして、最後まで協力してくれた経理部長ととともに、いくつかの親密な取引先にお願いをして、社員を受け入れてくれる先を見つけ、全ての社員の次の行き先を一つずつ決めていきました。

1か月ほど動いて、ようやく全ての社員の次の就職先が決まりました。その夜、本当に一緒に頑張ってくれた経理部長とともに、僕が入社3日後に一緒に行ったお寿司屋さんに行きました。彼に対する感謝と申し訳なさから、お寿司を食べながらずっと泣いていたのを覚えています。
(気づいたら僕は職がなくて、その後3か月無職になりました)

僕が事業承継に感動を覚える理由

もう20年以上前の話です。もっと山ほどの出来事がありましたが、この後僕は幸いにもクレジットカード業界に戻り仕事ができ、その後人事に転身します。この出来事がきっかけで、僕は「社長業の怖さ」を実感しました。そして自分自身に足りないものが山ほどあること、一番大きかったのは「僕は社長には向いていない。それを支える番頭の方が向いている」。そこから先の今までの僕の人生は、「トップを支える番頭さん」「裏方」をやる方が性に合っていて、ずっとそんな仕事のスタイルでやっています。

そして、人事になり、パラレルワークをやるようになってから、多くの事業承継の案件に取り組ませていただくことができました。不思議なもので、事業承継専門と言っているわけではないのに、多くの案件のご相談をいただくようになりました。

たった数か月でしたが味わった怒涛の日々。これは間違いなく「社長の立場を見させてもらった貴重な経験」でした。自分が二代目の立場として事業承継の難しさを目の当たりにして、世の中の二代目、事業承継をする人たちの大変さが、手に取るように感じられるのです。

・今まで(自分の知らない)伝統と文化があること
・周囲には、味方はいないこと
・でも、一人一人、味方を作ることはできること
・事業を継続(永続)させていくことの難しさ
・企業は、本当に生き物。間違うと転がるように落ちていく。
・チャレンジをし続けないと、企業は死んでしまう
・トップは、自らで範を示さないと、誰もついてこない

これ以外にも山ほど多くのことを学びました。

そして、そこにいる社員たちの幸せ。
これを守ることがいかに大変か。

はじめは僕を、「ボンクラ二代目」だと思っていた社員も、僕の姿を見て、徐々に認めてくれ、変わっていってくれました。そして自主廃業になっても、最後は僕を「仕方がないね。よく頑張ってくれたね」と、許してくれました。でも結果的に、僕は、社員の雇用を守ることができなかったのです。

企業という組織、そこには必ず人がいます。
そして、その集合体としての組織があります。特に事業承継の企業の話は、その渦中にいる経営者、事業承継を受ける経営者、その社員、ステークホルダー。僕には、関わる人のその心を感じてしまい、感動を覚えるのです。

もしかしたらこれは、僕自身が成し得なかったものを、リベンジしようとしているのかもしれません。でも、僕は、自分のためではなく、そこで困っている人たちのために力になりたい。そう思っています。

世界で100年以上継続している企業数が最も多いのは日本です。
日本人にはそれだけ「続けること」ができる資質と文化が備わっている。
今、こうして日本中の企業が未曽有のコロナ禍で苦しんでいるけれど、これまでいつも日本人はレジリエンスで乗り越えてきました。今は、そのコロナ禍を乗り越えることと、多くの企業が事業承継のタイミングを迎え、この危機をどう乗り越え、新たな形を作っていくか皆さん考えています。

僕はそのお手伝いを、これからも力が続く限りやっていきたいと思っています。


よろしければサポートをお願いします! 日本がいい社会になっていくために、自分のリソースをどんどんかけていきたいと思います!