伝えないこと

先日、ゲストにリポーターの森川のどかさんを迎えて、秋田で映画のYouTube撮影をしました。

ぜんぜん再生数いかない我々のYouTubeに出てくれるなんて嬉しくて仕方なかったんだけど、2本目ぼくのスマホで撮影したら音声が撮れておらず、

やってしまった、

昨日から今まで泣いていて何も手につかない。
死にたい。
長谷川さんに報告はした。
長谷川さんLINE「気にせずにー!」

グループLINEには長文謝罪をあげたけど、それは一体なんなのか、、、わたしはどんな言葉を期待していたのか、最悪だ、、
なにも考えたくない。

と布団の中に入っていて、
「あ、でも人の役には立てる」と思った。
今回の様に『すべて台無し』にしてしまうこともある。
同時に誰かの役にもきっとたてる。
それが、なんとなく自分を小さく奮い立たせている。
惨めだ。でも生きなければ。つらい。


そこでだ

大文字にすることは無かったんだけど、森川さんを迎えて、長谷川さんとわたしたちのYouTube(「秋田で映画」)で『パーフェクトデイズ』のネタバレ感想回だったのだが、

パーフェクトデイズの主人公、平山演じる役所広司が、フィルム写真を撮影することを趣味にしていて、現像しそれを誰に見せるわけでもなく箱に入れ、集めているんだけど、
長谷川さんが「今、シェアの時代なのにね」と言って、その話でわっと盛り上がる。

SNSでは喜びも悲しみもシェアしている。
自分だけの悦しみ。そういうものがなんなのかわからなくなったんじゃないか?
風景の写真を撮る。きれいだ。
それだけではダメなのか。
いや、もちろんダメなんてことなんてない。それを見て「きれいだな」といいねボタンを押す人もいて、誰かの癒しになっていたりもする。

でも待てよ。
例えば猫。猫がいてかわいい。写真を撮るとする。
猫がいる。かわいい。じゃダメなんですか?

Snsは承認欲求を満たすためと人は言い、実際そういう機能を果たしている。誰しも人生で15分有名になれるという。
承認欲求と、あなたの楽しみ。
あなたの楽しみが承認欲求と一くくりにされているんじゃないか?

ぼくは承認欲求を満たされたい方で、承認欲求のために様々なことをしていたら色んな経験がなされた様に思う。
でも楽しみという観点ではどうだったかな?
なにをしている時に楽しかったかな?
久しく「楽しい」が思い出せない。

森川さんや長谷川さんにとても失礼な質問をした。
「楽しかったことありますか?」
確かこういう質問だったと思う。

でもそれは自分に投げ掛けた言葉でもあった。
最後に楽しかったことってなんだっけ?
自分だけの楽しみ。

森川さんが「友人といる時は楽しい」「でも『何をしたか?』と言われると…」と口ごもっていて、もしかして、それが答えかもしれなかった。

「何をしたかも覚えていない」それは最上位の楽しみなのでは?
楽しみに位をつけるのはナンセンスだが、楽しくて思い出せない、ついやってしまうもの。それが楽しみなんだとぼくは理解する。

楽しいことは未来でなく、過去でもない、その瞬間のもの。
だから平山さん(役所広司)は、誰かのためでなく(もしくは自分のためですらなく)写真を撮りためているのでは?
その瞬間を思い出すわけでも忘れるわけでない、切り取り収納するために。

では、ぼくは?おや待てよ?
もしかしたら、しっかり楽しんでいるのでは?楽しいこと、昨日食べたものすら思い出せない。
先週友人と遊んだことも、遥か遠くの物事の様に感じる。
でももっと、もっと楽しめる気がする。
昨日、自分のポカでやらかした出来事。
結果、現在進行形で苦い(まだ半泣き)出来事も、撮影はしたけど世に出ない森川さんと長谷川さんとの撮影。

いや、楽しかったは楽しかったけどちゃんと撮影しろよ。ふざけんな。
森川さんなんかゲストだぞ。

一瞬でも、昨日の出来事を平山さんの撮りためた写真に脳内変換しようとした自分を呪ってこの誰も読まないnoteに記す。

人に迷惑をかけるのは最悪だ。でもこの傷がいとおしい。自分しね。つらい。


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