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まだ書いていたいのに。

さきほど、獅子まいこさんのこの記事を読んで。そしてまた、引用先になってる記事も、読んで。

引き止めてくれる人も、支えになってくれる縁も、ワタシにはなかったですよ。むしろ、縁だと思っていたら、突然攻撃された。そして、死の淵まで追い込まれた。

ワタシは新卒1年後に就職してから21年に自殺未遂で川に飛び込もうとするまで、ず〜っと業界紙の記者として働いて、3社(試用期間で辞めさせられたのも含めると4社)を転々として来ました。
業界紙というのは企業規模を言っても中小ばかりだし、同業の数もそんなに多くはないです。一業界一紙、多くて三紙くらいでしょうかね。ですから、どの業界か、だとかははっきり書かないようにします。100%、特定されてしまうので。

最後の会社での前半

その中でもこの記事では、最後に所属して、2回目の自殺未遂をし、そしてこの仕事を永遠に離れるきっかけとなった業界紙の話を書きます。ワタシ自身今もトラウマのために思い出せない部分も多く、曖昧な話、そして読みづらい文章になる事を、今からお詫びしておきます。

そこに転職したのは19年。会社自体は、インフラ関係の業界紙と工業系の業界紙を発行していて、ワタシは工業系のほうに配属されました。そっちの配属ではない、と聞いていたのに少々戸惑いました。重要なことですが、この時ワタシはいわゆる「クローズド就労」で受けました。

オープン就労では自立して暮らせるような給料はもらえない……そう聞いていたからです。

配属からしばらく経って働き始めても、やはり戸惑いの連続でした。まず、先輩記者について行って教えてもらう、ということは最初の一ヶ月以外はほとんどなく、担当として振り分けられたのは「加工」。しかし取材先として担当者へのコネクションがしっかりあるのは原料系ばかりで、その関係(いわば下流?)については、ここ数年来途絶えているとのこと。

いわば、飛び込み営業のような事をして、取材先を増やしていかなければならない。でもどうしていいかわからない。必死にアポイントの電話やメールを送り続けるのですが、まったく取材は実らず。「取材しに行かないのか」という叱責や、嫌味も日を重ねる毎に増えていきました。複雑な関係会社・子会社関係を持っている業界でしたから、ようやく取材が実ったと思ったら上司の担当先ということもあり、大声で怒鳴られた事もありました。

そのうちに心にも身体にも、異変が現れ始めました。まず退社時に、足が5トンくらいになったように全然上がらなくなって、歩けなくなることが時々あったり。ワタシが持っている発達障害特有の、無自覚の癖で、周りを不快にする事も急に増え始めたようです。そんなこんなで、コロナが始まった頃の20年3月。ワタシは3ヶ月の休職をすることになりました。

会社からの休職手当についての案内は、全くありませんでした。

最後の会社での後半

復職したワタシを待っていたのは、心配する言葉でもなんでもなく、自分の不快な癖や無意識の行動を書いた一枚の紙でした。戻って早々、そんな心が折れそうな文章を突き付けられた挙句に「萎縮するな、不快だ」と言われたのです。怖くて、泣いてしまいました。

何が萎縮するなだ。威圧しているのはお前らだろうが。

しかし幸か不幸か(それとも結婚できたからか)なんとかワタシも、再開拓した取材先を広告相手まで関係を進展させたり、ルポ記事を任されたりとか、少しずつ仕事の幅を(他の人ほどではないですが)任されるようになりました。原稿チェックで教えてくれる先輩も、やっと固定して誰、というのが決まりました。ワタシはかなり、尊敬していたとは思います。「と思います」というのは、そのころのことは後述の出来事により、ほぼ思い出せなくなっているからです。

その頃の工夫(というか、矯正)を、一つお教えします。原稿をチェックに出して、赤をつけられたら、すぐにその内容をWordの自動校正に入力する。そうして、次にその書き方や表現を手癖で入力しようとすると、自動で以前と同じ間違いは回避される。というやり方です。今考えると、ずいぶんと滑稽ですね?

そしてある時、特集の原稿でナーバスになっていたワタシは、突然隣に座っていた教えてくれる先輩から、大声で怒鳴られました。腕を掻くな、垢がかかると。

それで、ワタシの中の何かが、急に切れました。携帯もカバンも何も持たず、フラフラと会社から外へと歩いていって。

そのまま、近くの神田川にかかっている橋から飛び込もうとしているところを、ワタシは取り押さえられました。4〜5人の警官の体重と筋力を感じながら思いました。「ああ、結局死ぬ勇気すらない、中途半端な人間なんだな」と。色々と曖昧になってしまいましたが、その感覚ははっきり覚えています。

おわりに

そんなわけで、ワタシは書く仕事からは全く離れています。退職後再就職を目指して何社か出版社は受けましたが、それも受かるわけはなく。そもそもそんな心身の状態で記者、編集者として働けるわけないですよね。その後障害者雇用として全然関係ない工場事務に再就職した、というのはプロフィールの通りです。

威圧と恐怖からは解放されましたが、失ったものもとても多かったです。収入も3分の2程度になり、生活が苦しくなった、というのは言うまでもないですが、なによりまとまった文章を、書きたくなくなってしまった。もう記者なんてやらない、と決めたときには書きたい文章を思いっきり書くぞ、と決めていたのにねえ。でも、書いていたいんです。長い文章を書くことを、そしてそれを人に見せることを、すこしでもいいから仕事にすることを、やめたくはなかった。

ワタシは記者になろうと、新聞や雑誌で紙メディアの報道に関わろうと、就活の時に決めました。それはなにより書くことが好きで、いつか作家やライターとして自分一人で活動しよう、それにはまずどこかに所属して書く仕事の練習をする仕事をすることが手っ取り早い。そんな軽い気持ちだったような気がします。それが、まさかこんな事になり、精神を壊し、書く事自体が嫌いになってしまうことにつながってしまうとは。

そして、今。まったく書く仕事なんて経験していなかった人が普通に独自でライターデビューして、自分の得意な専門分野で(たぶん生活を支えるほど稼いではいないんでしょうが)書けているのを見ると「なにもそんなことしなくても良かったのに~」と思うのです。

今、都内に出る用事があって、横浜駅でコレを書いています。東海道線は、茅ヶ崎駅での人身事故で遅れています。

今日茅ヶ崎駅で飛び込んだ誰かは、あったかもしれないワタシなんでしょうかね。

まとまりのない、下手な文章で申し訳ありません。

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