見出し画像

障害歴30年目に私が伝えたいこと

私は先天性の障害を抱えている。

先天性ミオパチーという筋疾患で2023年に芥川賞を受賞した作家市川沙央が抱える持病として知名度を上げた。

私は今年で30歳になったが31年も障害者をやっていればわかることもある。そしてそれは意外にも障害者にも健常者にも通じることだった。

先天性にしろ中途障害にしろ、はたまた癌にしても「クジ」を引いてしまった人たちは「なぜ自分が?」と思う人は多い。

理不尽に対する怒りである。

しかし、無情なことに生まれつき障害を持って生まれたり、あるいは大人になって癌になることに理由はない。
後者の原因について「癌家系だ」「〇〇が悪かったからだ」というセリフをよく聞く。
実際には癌になる原因は遺伝や生活環境が複雑に絡み合っているゆえ一元論で言い切ることができるケースは少ない。

障害や病気があったから「病気をした患者会で仲間と出会えた」「障害があるから今の自分がある」という。

障害や病気を持ってしまったことに人は理由を求め、物語で説明しようとする。まるで語り手が世界の成り立ちを神話で語るように。
障害にまつわる自伝やエッセイがいい例だが障害や病気自体が何かを生む出すことは決してない。

何かを見出したとしてもそれは単なる「結果」である。
例え病気や障害で延々と寝たきりになってもそこには何もなく結果があるだけである。
たとえその人が障害で不自由になりそこから一念発起し財を築いたとしても同じことだ。

真理は存在せず、それは幻にすぎない。

健常者も挫折することがある。その原因が何であれ、そして挫折したことに対し反省することはあれど挫折自体に意味はない。

全てのできごとに意味があるというのはまやかしにすぎない。

ただし、この記事を読んでくれている読者のあなたにはこのことを「理不尽に対する努力は無力である」と曲解しないでもらいたい。

私はあくまで「本人の力量や努力に関係しない理不尽に対し意味を求めるのも悲観するのも無意味である」と言っている。

それは病気や障害だけではなく、事故や災害、環境変化による困窮にも言える。

意味を求めずに理不尽を受容することが難しいことであることはわかる。

しかし、障害者として30年考え続けた結果わかったのは理不尽は「そういうもの」として割り切り、自分の道を進めるのが本当の意味での「障害受容」であるということである。




サポートお願いします!記事作成、マイノリティー研究の活動費にしたいと思います。