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【宮沢賢治童話村】ルーツを辿る旅で出会った、幻想的な光の共演

宮沢賢治の物語の世界観が好きだ。彼が紡ぐ言葉たちは、躍動的でありながら静かに佇んでいる趣がある。
宮沢賢治作品とはじめて出会ったのは、小学校の国語の授業だった。『雨ニモマケズ』などの詩作品のほか、『注文の多い料理店』についても授業を通して考察した記憶がある。ライドセルを背負っていたあの頃と今とでは、作品の捉え方、感じ方は大きく変わった。どちらにしろ私は、今も昔も、宮沢賢治作品に強く惹かれている。

我が家はあまり裕福な家ではなく、むしろ経済状況は逼迫していた。そのため、読みたい本は学校や市の図書館から借りて読むのが通例だった。図書館に立ち込める紙の本独特の匂いは、妙に私の心を落ち着かせた。当時の自分を取り巻く世界は、あまり優しいものではなかった。だから私は、たびたび本の世界に逃げた。

宮沢賢治は、数多くの作品を世に出している。その中でも特に印象深かったのは、『よだかの星』であった。

ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫を食べないで飢えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

『よだかの星』 宮沢賢治より引用

よだかは、醜い風貌をほかの鳥たちに疎まれていた。中でも鷹は、よだかの名前に「鷹」が入っていることにひどく腹を立て、「改名しなければ殺す」とよだかを脅した。「市蔵」という名前に改名しろと迫られたよだかは、屈辱的な改名の儀を行うくらいなら、いっそ遠くの空へ逃げようと天を上り、星になる。

虫を食べないで飢えて死のう。でもその前に鷹が殺しにくるかもしれない。だったら遠くの空に行こう。――理不尽を強いているのは明らかに鷹のほうなのに、よだかは、そんな鷹を「殺してしまおう」とはならない。そんなよだかに、自分の面影を見た。襲い来る理不尽と戦うくらいなら、いっそ逃げてしまおう。そのほうが、傷つく人が少なくて済む。はじめて『よだかの星』を読んだ小学生当時、私はそう思っていた。

◇◇◇

先日、諸々の事情が重なり、故郷の岩手県を訪れた。その際、「宮沢賢治童話村」にて開催中のライトアップが、10月30日までであることを知った。奇しくも私が県内入りしたのは、当日30日。当初の予定が日中で終わったため、滑り込みで童話村ライトアップを楽しむ機会に恵まれた。

「宮沢賢治童話村」は、岩手県花巻市高松に位置する。賢治の童話の世界を楽しく学べる「楽習」施設として、平成8年10月1日にオープンした。
「銀河ステーション」、「妖精の小径」、「天空の広場」、「山野草園」など、さまざまなコーナーが設けられており、メインには「賢治の学校」がある。また、賢治の学校は「宇宙」、「天空」、「大地」、「水」、「ファンタジックホール」の5つのゾーンに分かれている。

今期ライトアップは、屋外にある「芝生広場」、「妖精の小径」、「山野草園」、「賢治の教室エリア」にて2022年7月23日より開催された。

ライトアップ会場の入り口は、妖精の小径へと続いていた。鉱物のような形のオブジェが、あちらこちらに点在している。何色にも重なるグラデーションの光が、暗い森を淡く彩る。

木の上部に取り付けられたミラーボールが、細やかな光をあたり一面に注ぐ。まるで、星が降っているみたいだ。

そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えています。

『よだかの星』 宮沢賢治より引用

散りばめられた光に、『よだかの星』も混ざっているのだろうか。よだかのくちばしは、今でもちゃんと笑っているのだろうか。

林を抜けた先には、水辺と桟橋が広がる。水辺の奥に光る十字架は、美しく重厚感があり、見る者の胸を打った。
賢治の言葉には、静かな祈りが込められているように思う。『銀河鉄道の夜』に登場する十字架のモチーフは、そんな彼の祈りを具現化したもののように感じる。もちろん、捉え方は千差万別であろう。ただ私は、この光の連なりを見て、厳かな気持ちになった。心がしんと冷えて、それまで渦巻いていた負の感情が溶け、穏やかな凪が訪れた。

宮沢賢治の『こころ』は、広く、深く、どこまでも自由だったのか。それとも、不自由であったからこそ、物語の世界に自由を求めたのか。私には、知る由もない。

ただ、ひとつだけ言える。巖のこころ。樹のこころ。森羅万象を生けるもの、こころあるものとして捉えていた彼の世界は、私に自由をくれた。それはつかの間の自由ではあったが、少なくとも私は、彼の作品を読んでいる間は、「こころ」を解放できた。

真っ赤に染まるコキアを足元にして、色も光も多種多様などんぐりたちがひしめく。
『どんぐりと山猫』も、賢治作品のなかでよく知られる童話のひとつだ。まるいどんぐりがえらいのだ、とがっているほうがえらい、いやいや大きなのがいちばんえらい。――そんなどんぐりたちのやり取りは、まさに言葉通り「どんぐりの背比べ」で、人間の世界でもよく見かける光景だ。くだらないと、きっと誰もが思っている。それでも、昔から今に至るまでそのやり取りをやめられないのはなぜなのだろう。

どの色のどんぐりも、どの形のどんぐりも、すべてこんなにも美しいのに。

宮沢賢治作品『十力の金剛石』には、多くの鉱物が登場する。ダイアモンド、ルビー、オパール、サファイア、アマゾナイト、アメジスト、琥珀など。それらが一同に共演しているかの如く、色とりどりの光が集まり、地面や夜空を照らす。

幻想的な光のオブジェは、賢治の童話の世界観を見事に体現していた。そのなかではしゃぐ子どもたちの声もまた、彼が望む世界のひとつであったろう。

僕はもう、あんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしにいく。

『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治より引用

“ほんとうのさいわい”。それが果たして何を意味するのかは、きっと人によるだろう。みんながそれぞれの望む“さいわい”を手にすることができれば、どれほどいいかと思う。だが、それは容易ではない。誰もが本来、暗(やみ)を恐れている。みんながみんな、ジョバンニのように勇敢にはなれない。だから私たちは光を求める。目に見える光だけではなく、心を照らす道標となるような、灯台代わりの言葉を求める。

“襲い来る理不尽と戦うくらいなら、いっそ逃げてしまおう。そのほうが、傷つく人が少なくて済む。”
そう思っていた昔の私は、年齢と経験を重ねるごとに少しずつ変化した。戦うことでしか守れないものがあり、何かを守ろうとすれば何かを傷つけることもある。でも、いかなる理由があろうとも、「傷つけた」側が「しょうがない」と言ってしまうのは、今でも違うと思っている。

世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。

宮沢賢治のこの言葉を、「極論だ」と捉える人もいる。でも、私はそうは思わない。世界ぜんたいが幸福になりますようにと、そう願って紡いだ人の言葉だからこそ、こんなにも長い間、大勢に愛され、読まれ続けているのだ。

光を求めて、宮沢賢治の世界観を求めて、童話村を訪れた。そこで過ごしたひと時は、穏やかで、きれいで、優しい時間だった。脳内には、彼の言葉がひっきりなしにあふれていた。子どもの頃、古い図書館で夢中で貪った数々の物語。それらは間違いなく私の血肉になっているのだと、改めて感じた。

今回は時間の都合で館内までは見られなかったが、次回は館内含め、隅々まで探索したい。そうしてまた、賢治の言葉に触れよう。私にとってのルーツのひとつ。忘れえぬ、大切な「こころ」の一部として。


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