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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】ヴィラ・ローレルへようこそ(4)

第4話 社交界は毒まみれ

 ほわほわといい気持ちで眠っていたのに、急に瞼の裏で明かりを捉える。
 閉めておいた窓のカーテンを誰かが開けたらしい。なんてことするのよぅ……。
「お嬢さま、お嬢さま、そろそろお起きになってください」
「んあ? ん~~~……」
「いいお天気ですよ?」
「む~~~……」
 優しい声で呼びかけられるけど、しょーじきもう少し寝かせてほしい。
 あたしは寝返りを打って、声の主へ背を向けた。小さな溜息が聞こえる。
「そろそろお目覚めになっていただかないと、榊さんに叱られてしまいます……」
(叱られる? って、誰が? 碓井さんが?)
 それはマズイ!と思って、慌ててガバッと起き上がる。
 あまりの勢いに碓井さんがべっくらこいているのが見て判った。
「ま、まあ、効果覿面ですのね。榊さんのこと、そんなに怖がらなくても……」
 お淑やかに碓井さんがくすくす笑う。
(あ、ああ、なんだ、あたしが怒られるのか……)
 慌てて起きて損した気分。
「本日はなにをお召しになりますか?」
 言いながら、碓井さんがタンスを開ける。
 そう言えば昨日ゆきちゃんが、主人を着替えさせるのも執事の仕事とかなんとか言っていたけど。
(こ、これは……着替えも手伝ってもらうべきなんだろうか……)
 碓井さんに着せ替えられる自分を想像して、なんとも言えない気持ちになる。
「……あとで着替えるからいいや」
 とりあえず、しばらく寝巻きのままでいることを選択した。
(あ、ヤバイ! あたしまた洗濯物、籠に入れるの忘れて……!)
 ハッと洗濯籠のほうへ目をやって、
(……あ、いいんだ。昨日お風呂から出たら、脱いだものはすでに回収されてたんだった。んー……板前ツクシゼリー(※至れり尽くせり)ってこういうこと?)
 ちょっともやもやする。
「本日もお部屋まで軽食をお運び致しますか?」
「………」
 その言葉に、昨日のトラウマが甦る。
「ううん、いい。顔洗ってくるね」
 だってあたし、ものすっごく美味しいデザートついてきたら、やっぱり碓井さんに「少し食べる?」って言っちゃいそう。
 なんだかしょんぼりした気分で顔を洗い、洗面所から出てくると、碓井さんがベッドシーツをはずしているところだった。
(ああ……二度寝もできないんだね……)
 がっくりと立ち尽くすあたしに気づいて、
「ダイニングへ行かれますか?」
「え? あー……別にいいよ、まだお腹すいてないし……」
「さようでございますか……あの、では、お部屋のお掃除はどう致しましょうか?」
 ちょっと困ったような顔で、碓井さんが訊いてきた。
(あっ、あたしが出ていかないと掃除できないのか!)
「ごめん、やっぱりじゃあ、あたし下行くね! あとお願いしますっ」
 あたしは部屋を飛び出した。
「……はぁ~~~……」
 溜息を吐いて、その場にしゃがみ込む。
(なんか疲れるなぁ……。でもきっと、あたしを起こしてからやることの順番が決まってるんだよね。とりあえず明日は、起きたらすぐに部屋を出るようにしなくちゃ)
 つんつん。
 軽くつむじの辺りをつつかれる感触がして、顔を上げる。
「なにしてん?」
 腰を落としたユフィルが覗き込んでいた。
「にゃっ!?」
 ビックリして、勢いよく立ち上がる。
「なんでもないっ……」
「締め出し喰ろうた子供みたいになっとったけど? お?」
 部屋の中から、シーツを抱えた碓井さんが出てきた。
「あ、おはよう、ユフィルさん。あら、お嬢さま、まだいらしたんですか? なにかお部屋にお忘れものでも?」
「あああ、ううんっ、なんでもないよー? あ、コーヒー飲んでこよーっと」
 あたしはふたりに背を向けると、慌てて階段を駆け下りた。

「おはようございます、お嬢さま」
 ダイニングの前まで行くと、まるで待ち構えていたかのように戸口へ立っていた榊が挨拶してくる。
(うわ、疲れる相手がここにもいた……っ)
 心の休まる場所はないのかーっ!?とダイニングの奥を見たら、先に起きていたらしいゆきちゃんが椅子に座ってコーヒーを飲んでいるのに気づいた。
「おはよう、未亜」
 ゆきちゃんが、にっこり微笑みかけてくれる。
「ゆきちゃん……おはよ~」
 心底ホッとして、あたしはゆきちゃんの隣へ座った。
「どうかした? 疲れてるみたいだけど……」
「ううん、なんでもない」
 力なく首を振る。
「コーヒーでよろしいですか? お嬢さま」
 榊が訊いてきた。
「あ、うん、ありがと。……」
 いつものように優雅な手つきでコーヒーを入れる榊の姿を、ぼんやり眺める。
 榊の淹れてくれるコーヒーは、あたしにはちょっと苦い。ホントはもっとクリームたっぷりがいい。
 けど、真のコーヒー好きに言わせると、ミルクやクリームを入れてコーヒーの香りを判らなくしちゃうのは邪道だとか。やたら豆にこだわっていた榊も、もしかしたらそういうタイプかもしれない。そんなやつに「クリームもっと入れろ」とか言ったら怒られるんじゃないかと思って、あたしは言い出せずにいる。
「……お腹の調子悪い?」
 榊が置いてくれたコーヒーカップを横から見下ろし、ゆきちゃんが小首を傾げた。
「え? どうして?」
「クリーム控えめにしてるから」
「えっ?」
 思わぬ指摘に、あたしは慌てて榊のほうをチラ見する。ゆきちゃんの発言に振り返った榊と、バッチリ目が合ってしまう。
「あー、えーと……」
「お好みがございましたら、おっしゃってください」
「えっ? いや」
 榊がじっと見つめてくる。怒っている……というふうではないけど、機嫌がいいようにも見えない。
 まあ、それはいつものことか。
「じゃ、じゃあ、もうちょっとクリーム入れてもらえる……かな??」
 こわごわコーヒーカップを差し出したら、榊は黙ってクリームを追加してくれた。
「ど、どうも……」
 さっきよりも明らかに白っぽくなったコーヒーに口をつける。香ばしいコーヒーの香りは確かに少し鈍くなっちゃうかもしれないけど、やっぱりあたしはこっちのほうが好き。
 だけど、榊に悪かったかなとか思ったら、あんまり美味しくは感じなかった。

 広大な庭には、青い芝生と花の咲いた低木が並んでいる。
 屋敷の正面玄関からゲート近くまでは月桂樹の並木道になっていて、陽の高くなる日中はさすがに温度も上がって蒸し暑くなってくるけど、日陰がたくさんあるせいか、庭は案外涼しい。
 なにより、ひと目がないのがとっても嬉しい。
 あたしは普段、黙っているのはニガテだし、独りでいるよりは誰かと一緒にいたいほうだ。でも今は……。
 家の中にいると碓井さんがなにかと気にかけてくれて、いろいろしてくれるから。それは嬉しいんだけど……申し訳なくて疲れてしまう。
 そんなワケであたしはただ今、庭の繁みに座って一息吐いているところなのだ。
「お、こんなところにおったわ」
 葉っぱを掻き分けてユフィルが顔を覗かせる。
 ああ、見つかっちゃった。
「鷹弥が捜しとったで」
「なに?」
「ダンスステップの復習やと」
 ダメージ倍増だ。でも放っぽっておくと、榊のいつも悪い機嫌がより悪くなりそうだし。
「……判った」
「待ち」
 観念して立ち上がろうとしたら、ユフィルに手首を摑まれた。そのまま軽く引っぱられて、あたしはもっかい繁みへ腰を下ろす。
「この家、窮屈か?」
 隣に座って膝へ頬杖をついたユフィルが、初めて見るマジメな顔で訊いてきた。
「え?」
「ゆきが心配しとったで? 嬢ちゃん、馴染めへんのやないかって」
「ああー……」
 さすがゆきちゃん、よく見てるなぁ。
「……今まであんまり、こう……ひとにいろいろしてもらったことって、あたしないんだよね。だからどうしていいのかが判んなくてさ」
「別に、普通に『ありがとう』でええんちゃう?」
「普通っていうのが、さ……」
 ゆきちゃんだったら、きっとなんの違和感もなくスマートに返せるんだろうけど。
「あたしは……ほら、バカだから? たぶんみんなが言う『お嬢さま』的な対応ができないんだよね。どういうふうにするのがお嬢さまっぽいのか、よく判んないの」
 自分で言って、情けなくて溜息が出る。
 世の中のお嬢さま達は、誰かに食事を運んでもらったり服を着替えさせてもらったりした時、どんなふうに応じているんだろうか。自分がそんな立場になることなんてゼッタイないと思ってたから、そういう漫画とか読んだことあるはずなのに、まったく覚えてない。
「……み~あらしければ、それでええよ」
 少しの間の後に初めて名前を呼ばれて、あたしは思わずユフィルの顔を見返す。
 ユフィルは前を向いたまま、笑うでもおどけるでもなく、静かに言葉を継ぐ。
「なにも『お嬢さまとはこうあるべき』っていう理想像を嬢ちゃんに押しつけるつもりは、誰もあらへんで。嬢ちゃんは嬢ちゃんなんやから」
 ものすごく優しく言われて、泣きたくなってしまう。
「……でも、碓井さんが扱いにくいって……」
「そんなん、まだ来たばっかなんやから、碓井さんかて嬢ちゃんがどんな子なんか判ってへんもん。嬢ちゃんはなにをどうしたら嬉しい思うんか、まだ探り探りやろ。だからこそ、ちゃんと嬢ちゃんらしい反応をしてやらんと、いつまで経っても扱い方が判らんままになってまうやん」
 ユフィルの大きな手が、ぽん、とあたしの頭を撫でる。
「碓井さんも、鷹弥も、ほかの使用人達も、みんな嬢ちゃんに気持ちよく過ごしてもらうにはどうしたらええかを考えて行動しとるのに、それで嬢ちゃんがそない疲れてもうたら本末転倒や。あんまり世話を焼かれすぎるのがいやなんやったら、そう言うてええし。コーヒーにはクリームたっぷりがええって、鷹弥にひと言、言えばええねん。言っても誰も怒らんよ?」
「そ……かな……?」
「ま、あんまり朝寝坊しとったり、わがまま言うと叱られるけどな」
 笑って、あたしの頭をぽんぽんする。
「ここにおるみんなは、もう嬢ちゃんの家族なんやから、もっとリラックスしぃ?」
 家族。
 そんなふうに言ってもらえるなんて、ゼンゼン思ってなくて。
 このお屋敷で、あたしだけが多紀さんを知らない。
 ううん、ユフィルや榊や、ほかのみんなのことだって、初めて会うのはあたしだけ。
 あたしは飽くまで、ゆきちゃんのおまけで。
 そんな『家族』だと思ってもらえるなんて考えてもみなかったから、なんだかすっごく……嬉しい。
 だからあたしは、
「うん……!」
 ユフィルに向かって、とっておきの笑顔で頷いた。

「ふわ~……すごい豪華だね」
 うちのお屋敷も相当だけど、ナントカ夫人の別荘は、もはや宮殿だった。
 横一列に20人は並べそうな広い階段に、赤い絨毯が敷かれている。それをのぼって観音開きの大きな玄関扉を潜ると、クリスタルのちゃらちゃらぶら下がるシャンデリアがお出迎えだ。
 これ広間だよね!?ってくらい広い廊下のあちこちで、先に来た招待客たちが思い思いに談笑している。
(あっ、あのひとテレビで観たことある! 確か昼の情報番組の司会やってるひとだ! その隣は、こないだ雑誌で特集されてたベンチャー企業の社長さん!?)
 お屋敷と同じくらい豪華な招待客の顔ぶれに、場違い感ハンパないあたし。思わず尻込みしかけた時、隣から深い溜息が聞こえてきた。
「バカみたいに口を開けていないでください。あなたのせいで恥ずかしい思いをするのはごめんです」
 榊が眼鏡を押し上げながら、嫌味を言ってくる。
「なんのための特訓ですか? しゃんとなさい!」
「判ってるよっ」
 あたしは慌てて背筋を伸ばした。
 実は出かける寸前まで、あたしはダンスステップと立ち居振る舞いの復習をさせられていた。ぶっちゃけ、榊のしごきに比べたら昨日のシュクジョキョーイクのプロたちのほうが、何倍も優しかった。
(でも、言ってることは判りやすかったんだよね)
 榊の説明を思い出す。
(まず、頭のてっぺんから糸で吊るされてるのをイメージして……)
 首をまっすぐに起こして肩を開く。
 歩く時は後ろにある脚のほうを意識して、反対側の脚を前へ送り出す感じ。
(フシギ……視界がなんだか明るくなったみたい……)
 さっきは少し居心地悪く思えた周囲のキラキラが、今はそんなに気にならない。
「ほう……」
 少し遅れて歩いていた榊が、小さく声を洩らす。
「なによっ? なんかもんくある?」
「いいえ、感心していただけですよ」
「え?」
「そのハリウッド女優なみのスタイルなら、黙って立っているだけで男達を悩殺できます。ほら、周りをご覧なさい」
 言われて辺りを見回すと。
「ぅ……な、なんか見られてる?」
「いい女だと思われているのですよ。彼等の幻想を壊さないでさしあげてくださいね」
「き、緊張させないでよ……っ」
 途端に脚がもつれそうになるあたしに向けて、榊が肘を差し出した。
「では、二ノ宮夫人へ挨拶にまいりましょうか、お嬢さま?」
 眼鏡の奥の眼が、初めて優しそうに微笑んだ。
 きらびやかなパーティー会場には、バンドの生演奏が流れている。曲に合わせて踊っているひともいれば、壁際へ並べられたごちそうを頬張っているひともいる。
 榊は会場内を軽く見渡し、ひとりの女性のほうへとあたしをエスコートした。
「マダム」
「あら! 鷹弥、あなたが来てくれるとは思っていませんでしたわ!」
 呼びかけられた老齢の女性が、榊へ一歩近づく。
「よく顔を見せてちょうだい。もう落ち着きまして? 多紀さまのご葬儀ではお会いできませんでしたものね」
「その節はご挨拶にも伺わず、大変失礼をいたしました。いろいろと立て込んでおりましたもので」
「ええ、そうでしょうとも。とてもいいお式でしたもの。あれもすべてあなたの差配だったのでしょう? 多紀さまに拾われたあの痩せっぽちの少年が、本当にずいぶん立派になって……」
 愛おしげに、榊の頬を両手で撫でた。
(多紀さんに拾われた……?)
 ついこの間も似た話を聞いたような……。
「マダム、私の話はそのへんで。今夜の私は、こちらのお嬢さまの後見役ですので」
 ほんの少しだけバツの悪そうな表情で、榊が話を切り替えた。
 女性の注意があたしに向けられる。
「あら、ではこちらが……?」
 榊が彼女からは見えない角度で、ぽん、とあたしの背中を叩く。
「あっ、えと、初めまして、ゆきちゃ……征斉の妹の未亜でしゅ」
 噛んだ。
「ええと、今夜はおねまき……ん? おね……ま……ねき? いただきまして、ありがとうございます」
「ふふ、よくおいでくだすったわ。お噂は伺っておりましてよ?」
 ナントカ夫人がゆったりと微笑む。
 いったいどんな噂だろう?
「あなたのお兄さまにはあたくしも初めてお会いしましたけど、お聞きしていた以上に華やかな方ね。それにお話しも上手で、とても魅力的だわ」
 そーでしょ、そーでしょ! うちのお兄ちゃん、世界一カッコイイから!
 まるで自分が褒められたみたいに嬉しくなる。
「ほら、もう今夜のお客さまがたの関心を独り占めでしてよ」
 ナントカ夫人の指し示すほうを見ると、ひときわたくさんのひとが群れている中心にゆきちゃんの姿があった。
(わー、ゆきちゃん囲まれちゃってる)
 質問攻めにされているっぽいゆきちゃんの後ろには、漣の仏頂面も見える。珍しく正装してるのが、いかにも「着せられました」感を出してて、ちょっとおもしろい。
「どこからともなく現れて一条多紀の後継者に収まった謎の美青年、ですからな! みんな興味津々ですよ」
 突然大きな声で、中年男性が話に割り込んできた。
「やあ、どうも二ノ宮夫人。今夜はお招きいただきまして」
「こんばんは、松平先生。はるばる辺境の孤島までようこそ」
「なに、二ノ宮夫人にお会いするためなら、ヘリの1機や2機飛ばしても馳せ参じますよ」
 松平と呼ばれた男のひとはナントカ夫人の手の甲へ軽くキスをしてから、榊のほうを振り返る。
「どうも、榊くん。久しぶりじゃないか」
「ご無沙汰しております、松平先生」
「今をときめく噂の彼、きみが面倒を見てるんだって? あの人垣じゃあ近づくこともできなくてね、紹介してくれないか?」
「そうですね、では後ほど」
 とっても丁寧に返してるけど、榊の眉間に薄くしわが寄っている。たぶん、あんまり好きな相手じゃないんだと思う。
(結構顔に出るんだな、榊って……)
 そんなことを考えながらぼんやり榊を見上げていたら。
「あら、でしたら、ちょうどここに征斉さんの妹さんがいらっしてよ、先生」
 突然話を振られた。
「え、本当ですか? そりゃあ、ぜひお近づきになりたいですな!」
 男のひとが名刺を取り出す。
「日本民主社会党の松平宗次郎です」
「あ、ども」
 ええと、名刺を受け取る時は両手で、だっけ?
 昨日教わったことを実践してから、榊の選んでくれたほとんどなにも入れられない小さなバッグへ、あたしはその名刺をしまう。
「せっかくですから、一曲踊っていらしたら? 松平先生、ダンスはお得意でしょう?」
「えっ!?」
 ナントカ夫人のムセキニンな提案に、あたしは思わず榊の顔を見る。
 行ッテコイ。ステップ覚エテルダロウナ?
 目がそう言っていた。
「ではお嬢さん、一曲お相手願えますかな?」
 松平さんが手を差し出す。
 こういう場合の返事のしかたも、バッチリ習ったぞ。ええと確か……、
「ハイ、喜んで!」
 元気よく答えたあたしの後ろで、榊が片手で顔を覆うのが見えた。
 なんで? 間違ってなかったよね?
 場内には、ピアノとフルートとバイオリンのでっかいやつで奏でる音楽が流れている。
 榊と特訓したワルツ?とはちょっと違うけど、ダンスが得意と言うだけあるのか松平さんがうまくリードしてくれて、あたしもなんとなく踊れてるっぽい。
「きみも今はヴィラ・ローレルに滞在しているのかい?」
 ステップを踏みながら松平さんが口を開いた。
「ヴィラ……?」
「ローレル。一条さんが道楽で建てた豪邸だよ」
 そう言えばあの家、そんな名前がついてるんだっけ。家に名前があるって、ちょっとスゴイよね!
「彼女がヴィラ・ローレルへ移住を決めた時、一条グループの役員のひとりが『冗談やめてください』と口走ったって話は有名だけど」
(有名なんだ?)
「突然、征斉くんを後継者に据えると言われた時には、もっと『冗談だろ!』って気持ちだったろうね。なにせ、子供のいない一条さんが養子を迎えるとしたら榊くんしかいないと、誰もが思っていたからね」
「え?」
「長年公私にわたって彼女に尽くしてきた榊くんとしては、内心はらわたの煮えくり返る思いだったんじゃないかな。その榊くんに彼のお守りを頼むんだから、一条さんも大概だよ」
 それって、つまり……?
 あたしは肩越しにそっと榊の姿を探す。
 一方の松平さんは、相変わらず人だかりの中央にいるゆきちゃんを遠目に眺めた。
「それだけあの彼に夢中だったってことかな。一条さんの派手な男性遍歴最後の恋人とか言われていたしね。彼女はそういうのビジネスには持ち込まないタイプだと思ってたんだが……」
 あたしのほうへ視線を戻すと、ニヤリと笑う。
「彼、やっぱり夜がスゴイの?」
 ゲシッ!と、ヒールで思いきり足を踏みつけた。
「いって……! きみ、足踏んでる!」
「わざとだよ! なんなの、あんた! それじゃまるで……」
「失礼」
 後ろから急に肩を引き寄せられる。榊だ。
「ダンスの途中ですみません、松平先生。マダムがお呼びですよ」
「二ノ宮夫人が? そりゃお待たせするわけにいかないな、失礼するよ」
「ちょ……っ」
 慌てて背を向けた松平さんを呼び止めようとしたんだけど。
 あたしの肩を抱くようにした榊に、むりやりバルコニーへと連れ出されてしまった。
「こんなところで騒ぎを起こさないでください」
 バルコニーの手前でボーイから受け取ったオレンジジュースを、まるで子供の機嫌でも取るみたいに渡してくる。
 まあ、貰うけど。
「だって……! あいつお兄ちゃんのこと、まるで多紀さんのヒモかなんかみたいに……」
「ああいう類いの謗りを受けることは、征斉さまとて覚悟の上ですよ」
 榊はバルコニーの手すりに背を預けると、庭へと下りる階段のほうへ目を流す。
「それに……噂はあながち間違ってもいません。火のないところに煙は立ちませんから。そういう噂を囁かれるような振る舞いを、征斉さまがなさっているということでしょう」
 瞬間、頭が真っ白になった。
 気づいた時には、あたしは持っていたオレンジジュースを榊の顔目がけてぶっかけていた。
「あんた、誰の味方なの? お兄ちゃんの執事なんでしょ、あんた! それなのに庇いもしないわけ?」
「………」
 榊が短い溜息を吐いてバルコニーの階段を下り始める。
「ちょっと! どこ行くのよ!?」
「この格好では会場へ戻れませんので、帰ります」
「ああ、そう、勝手に帰れば?」
 言い訳もしない榊に心底ガッカリする。
 榊は怠そうにちらりとこちらを見返ると、
「……では、お先に」
 そのまま庭を横切って、駐車場のほうへと去っていった。
(なんなの、なんなのよ、あいつ!? メッチャ腹立つ!)
 イライラと足を踏み鳴らしながら室内へ戻るあたし。
 立食用のテーブルに置いてあったローストチキンを掴み取って、腹立ちまぎれにかぶりつく。
「征斉くんだろ? さっき話したよ」
 すぐ近くで、数名の男女が談笑する内容が洩れ聞こえてきた。
「思っていたよりはマシだが、あまり才知は感じないね。あれじゃ一条グループの役員達が不安がるのも当然だろう」
「あら、でもハンサムだし人当たりもいいから、広告塔にはなるんじゃありません? おつむのほうは判りませんけど」
「遺言では彼を後継者にって話だが、さて、どうなることか……」
(ああ、だからか……)
 あの日、島へ移住すると話した時のゆきちゃんの様子を思い出した。
『自信がないんだ。それなりに期待もされているわけだし……』
 あんなふうに弱音を吐くゆきちゃんを、あたしは初めて見た。
 ゆきちゃんはあたしにとっていつだって、優しくて賢くて頼れるお兄ちゃんだったし、ママや叔母さん、周りのひとみんな、今までゆきちゃんを悪く言うひとなんてひとりもいなかった。
 だけど。
(こんなにたくさんひとがいるのに、誰もゆきちゃんの味方じゃないんだね……)
 ゆきちゃんは今どんな気持ちで、味方じゃないひと達に取り囲まれているんだろう?
 そう思って、ひとの群れているほうへ目をやる。
(あれ?)
 中心にいたはずのゆきちゃんの姿が消えていた。
(どこ行っちゃったんだろ?)
 きょろきょろと会場内を捜してみる。どこにもいない。
(ウソ、帰っちゃった?)
 ゆきちゃんはここまで、漣の運転する車で来たはずだ。そしてあたしは……榊の車で来た。
(……ヤバイよ、あたし帰れないじゃん!)
 慌てて廊下へ飛び出すと、玄関先でボーイさんに挨拶しているゆきちゃんを見つけた。
「ゆきちゃん!」
「未亜? どうしたの、走ると危な……」
「わっ!?」
 注意された途端、ヒールが滑って転びかける。ゆきちゃんの隣にいた漣が、とっさに受け止めてくれた。
「あたた……ごめん」
「ほんっとにおまえは、衣装と中身が吊り合ってねえな。あと、皿は置いてこい」
 まだスモークサーモン持ったままだった。
 呆れた漣がお皿をボーイさんに返却してくれる。
「う、うっさいな!」
 恥ずかしくなって、あたしは漣の胸を軽く叩いて体を離す。
「ゆきちゃん、もう帰るの? あたしも一緒に帰る」
「え? 鷹弥さんは?」
「先に帰った」
「そうなの? どうして?」
「頭からオレンジジュース被ったからじゃない?」
「え? どうしてそんなことに……」
「ちょっとムカツクこと言われて、あたしがぶっかけたから」
「…………」
 ゆきちゃんが一瞬言葉を失う。やがて、
「……それはまた……思いきったことをしたね……」
「だってさ! なんか許せなかったんだもん!」
 明らかに困った顔のゆきちゃんに、あたしは言い訳した。
「く……くっくっく」
 黙って聞いていた漣が、こらえきれなくなったみたいに笑いだす。
「どんな顔してヴィラのドアを開けたんだろうな。おもしろいから早く帰ろうぜ」
 先に立って駐車場へと歩いていく。
 ゆきちゃんは苦笑したままあたしの背中に手を添えると、漣がドアを開けた車の後部座席へ並んで乗り込んだ。
「……なにを言われたのかは知らないけど」
 車がゆっくり発進するのに合わせて、ゆきちゃんが口を開く。
「不愉快だってことを伝えるのに、ジュースをかける必要はあったのかな?」
「え?」
 ゆきちゃんは穏やかな笑みを浮かべて、あたしのほうを見ている。
「で、でも……あたし悪くないと思う。あんなこと、あたしの前で言うのおかしいもん」
「うん、未亜は自分の正義感に従って行動したんだよね。それ自体は間違ってないと思うよ。でも、いきなりジュースをかけられた鷹弥さんの気持ちは考えた?」
「榊の……気持ち?」
「そこまで自尊心を傷つけちゃったら、もし鷹弥さんが失言したと後悔してたとしても、謝りづらくなっちゃうよね?」
(……確かに。もしあたしだったら、たぶん逆ギレする)
「で、でもっ、あいつ絶対謝る気なんてなかったもん!」
「どうして判るの? 未亜もその時は冷静じゃなかったでしょ? 正しく判断できてるとは限らないよね?」
「…………うーーー……」
 カッとなってなにも考えずにやっちゃったのは本当だから、反論できない。
 ぽんぽん、と、ゆきちゃんがあたしの頭を優しく撫でる。
「ヴィラに帰ったら、まずは鷹弥さんにジュースをかけちゃったことを謝ること。その上で、鷹弥さんには発言を撤回してもらうか、釈明してもらうかしなさい」
「……なんか……あたしから行かなきゃいけないのって……ナットクできないんだけど」
「でも、どちらかが歩み寄らなかったら、いつまでも理解し合えないでしょ? そういうの、鷹弥さんはニガテそうだから。きみならできると思うんだけどな」
「うーーー……」
「お願いしないとダメ?」
 そう言ってゆきちゃんはあたしの手を握ると、下から覗き込むようにして微笑んだ。
「鷹弥さんと、仲直りして? ね?」
「っ……」
 あまりの色っぽさに一気に頬が熱くなる。
「そ、それ、ズルくない?」
 あたしは握られた手をぶんぶん振って振りほどくと、真っ赤になった顔を両手で覆った。
「もうっ、判ったよ! ちゃんと話しに行く!」
「ありがとう」
「……その手段、妹相手にも使うのか」
 それまで会話にまざらなかった漣が、運転席からバックミラー越しに口を挟む。
「効果がありそうな相手なら誰にでも使うよ」
「おまえのそういう態度が、執事を硬化させてるような気もするがな」
 その指摘に、楽しそうにしていたゆきちゃんの顔から笑みが消えた。
「……そう、だね。改めます」
「?」
 この表情には見覚えがある。確か初日、榊に「よろしくお願いします」って言って、なんだか判らないけど怒られた時に見せた顔だ。
(……もしかして榊とゆきちゃんって、うまくいってないのかな?)
 松平のオヤジが言っていたことを思い出して、あたしはまたひとり静かにムカムカしてしまった。

「おっ帰り~」
 帰宅したあたし達を出迎えてくれたユフィルが、どことなくニヤニヤしている。
「ただいま。鷹弥さんは?」
「あー、執務室ちゃうか?」
 榊、帰ってるんだ。いや、そうだよね、あたりまえだよね。
「……怒ってた? よね……?」
 恐る恐る訊いてみる。
 ユフィルが苦笑した。
「そやなぁ、あのシャツ、もう使われへんやろ?」
(だよねー。絶対シミになってるよねー)
「……行ってくる」
 深い溜息をひとつ吐いて、あたしは観念して榊の執務室へ足を向ける。背後からゆきちゃんが「一緒に行こうか?」って言ってくれたけど。
「ううん、ひとりでいい。もうケンカしないから安心して」
「頑張れや~」
 ユフィルが笑いながら手を振っている。
(あんにゃろう、おもしろがってるわね。……ああ、でもヤダなー、榊って根暗っぽいからなー、絶対許してくんなさそう)
 こういうの、なんて言うんだっけ? ゼツボウのフチ? アンタンたる気持ち?
 漫画にそんなセリフがあったなーなんて思い出しながら歩くうちに、榊がいつも仕事をしている執務室の前へ着いてしまった。
(でもなんで執務室? まさか今からまだ仕事?)
 見るたびに眉間へしわを寄せて忙しそうにしている彼のことだから、充分あり得るけど……。
 思いきってドアをノックしてみる。
 返事がない。
(あれ? もう自分の部屋に戻ったのかな?)
 もう一度ノックしてみようと片手を上げた時、
「――。」
 メッチャ不機嫌そうな顔をした榊がドアを開けた。
 どうやら軽くシャワーを浴びたらしく、いつもきちんと撫でつけている前髪が湿って垂れている。服装もシャツとスラックスという寛ぎモードで、なにより手袋をしていない! いつもと違う彼の姿にちょっとドキッとしてしまう。
「……ご用ですか?」
 そんな場合じゃなかった。
「あー……」
 怯むなあたし、トゲトゲした物言いは榊のデフォルトなんだから!
「さっきはごめん!」
 思いきり深々と頭を下げる。少しびっくりしたのか、榊が一歩後ずさった。
「ジュースかけちゃったのは謝る。やり過ぎちゃった。ごめんなさい!」
 少しの間が、永遠みたいに長く感じた。
「……廊下でする話でもないでしょう。お入りください」
 榊が体を少しよけて、あたしを部屋へ招き入れてくれる。
「でもね、あたし、あんたには本当に頭にきたし、今も怒ってるよ?」
 部屋へ入りきらないうちに話しだしたあたしを、軽く扉を引いた榊が見下ろしている。
「ただ、口で言う前に行動に出ちゃったのはよくなかったよね。お兄ちゃんにも叱られたし……」
「征斉さまに?」
「あっ、あんたが言ったことはゆきちゃんには話してないよ? ただヤなこと言われてあたしがキレてジュースぶっかけたとしか」
 告げ口したとは思われたくないから、慌てて否定する。
 半開きにしたままのドアのノブから、榊が手を放した。
「でも、そんなふうにジュースかけられたりして、榊の気持ちを考えてごらんって言われて。確かに悪かったなって思ったんだ。シャツもダメにしちゃったし……」
「…………」
「だから、ごめん。ジュースかけちゃったことは、ホントに謝る」
 あたしはもう一度深く頭を下げた。
 頭上から小さな溜息が聞こえてくる。
「いえ……私もいささか軽率でした」
 少し柔らかくなった口調に、あたしはそろりと顔を上げる。
「あなたにとって征斉さまは、たったひとりのたいせつな兄上。その方を中傷するようなことを、あなたの前で言うべきではなかった。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
 今度は榊が頭を下げた。
「……それって、あたしに謝ってくれてるんだよね?」
「そう聞こえませんか?」
「ううん、聞こえる。でも……」
 そうじゃない感が強い。あたしは謝ってほしかったわけじゃなくて……。
(たぶん、ゆきちゃんに味方してほしかったんだ……)
「あのさ……嫌いなひとのお世話してて、楽しい?」
「仕事ですので、楽しい楽しくないは二の次です」
「やっぱ、ゆきちゃんのこと嫌いなんだ?」
 そこは否定してもらいたかったのにな。
「印象はよくないですね」
 隠すつもりはないみたいで、榊はソッチョクにそう答えた。
「なんでよ? ゆきちゃん、いいひとだよ? まさかさっきの噂、本気にしてるわけじゃないでしょ?」
「……本当に征斉さまからなにも聞いていらっしゃらないのですか? 養子縁組の経緯含めて」
「うん」
 そもそもなんでゆきちゃんは、そんなもの凄いお金持ちのひとと知り合ったんだろう? 考えてみればフシギだ。
「あたしお兄ちゃんがなにしてたのかも、実はよく知らないんだ。なんか家を出ていく時間帯が変だったから、普通の仕事じゃないんだろうなっていうのは判ってたけど……。英語で電話してることもよくあったから、外資系じゃない?って友達が言ってたけど……そうなの?」
「ご自分でお尋ねになってはいかがですか?」
「訊いてもしょうがないじゃん。あたしバカだから、相談に乗ってあげられるわけでもないし」
 なにもできないのに根掘り葉掘り訊いて、うざがられるのもイヤだし。
 ちょっと拗ねた気持ちで俯く。
「……ご兄妹のことはご兄妹で話し合ってください」
 突き放された。
「ねぇ、あんた優しくないって言われない?」
「言われませんね。ご用件はもうお済みでしょう。ご退室ください」
 再びドアを開け放つと、あたしの背中を押して追い出しにかかる。
「えっ、ちょ……、話途中じゃん! ってか、あんたこの上まだ仕事する気? もう10時過ぎてるよ?」
「10時を過ぎていようがいまいが、片付けなければならない案件がある以上やらざるを得ないでしょう。私はあなたと違って暇ではないんです。お引き取りを!」
 部屋のドアをバタンと閉めた。
「もうっ! 仕事虫! 体壊しても知らないからね!」
 外からドアを一回叩いたけど、もう反応はない。
(多紀さんの後継者に選ばれるのは榊のはずだった……っていう話は、ホントなのかもしれない)
 だから榊はゆきちゃんがキライ。
(でもゆきちゃんは、そんな榊をソンケーしちゃってるんだよなぁ……)
 なんだか少し、セツナクなった。

・・・つづく


第5話 ワルイ友達

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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